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優越感より好奇心と憧れ

中学高校の6年間カトリックの学校に通った。そのときの中学時代の校長先生は強く印象に残っている。倫理の時間にときどき授業をされた。中3のときだったと思う。劣等感は良くないが優越感も良くないという話をされた。
いろいろ考え方はあるだろう。劣等感からある種の人間的パワーを溜め込んで前へ進む人もいる。ただ、ネガティブな心理や気持ちというのは長続きしないしそもそも本質的にマイナスのものからプラスのものを生むのは限界がある。中学時代はそんな思いがあったかどうか今では思い出せないが、優越感も悪いの?と何となく納得出来ず良く理解できなかった。
今思い返すと分かってくる。優越感は劣等感の裏返しでしかない。例えば、思い出すことがある。ブラジルへ行く途中のトランジットでロンドンのヒースロー空港の手荷物検査が黒人だった。明らかに人種差別と思われる行動だった。呼び止められて荷物の中を一つ一つ見るのはまだいい。しかし、目薬をわざとらしくこねくり回して検査する態度には少しムッとした。必要以上に時間をかけて拘束する執拗な荷物検査だった。想像するにこの黒人検査官は日頃白人に差別されて劣等感を持っていたのではないだろうか。その腹いせ?に自分の様な黄色人種にある種の優越感を感じ、嫌がらせをするに至ったのではないか。あくまで想像だが白人に対する劣等感の裏返しが黄色人種に対する優越感となって現れたのではないか。両者が裏返しということは同列ということだ。劣等感が悪者なら優越感も悪者ということになる。

優越感も劣等感もどちらも自分以外の他人に対する比較から来る。他人と比較して自分を上げたり下げたりするのは、他人が自分を評価するには構わないが自分が自分自身を評価するには心許ない。土台無理がある。何故なら比較対象の他人が変われば自分の評価が変わることになるからだ。たまたま近くにいる他人がこういう面々だから今の自分は自分をこう評価している。しかし、環境が変わり周りの他人が変われば自分の評価も変わります、というのであれば心許ない。自分の自分自身への評価とはもっとしっかりしたものでなければ精神も心も安定しない。自分軸というものがしっかりしない。

自分の自身への評価とは少なくとも自分の中でしっかりと具体的で揺るぎないものでありたい。普段、自分のライバルは他人の誰かではなく昨日の自分だと思っている。昨日の自分より今日の自分は成長しているだろうか。良い方向へ変わっているだろうか。1日多く長く生きた分だけ前に進んでいるだろうか。そう問いかける。では、優越感も劣等感も捨てて何を持って何が自分を突き動かすのだろう。他人軸ではなく何が前へ進む原動力になるのか。前へ進む自分を高める原動力、それは好奇心と自分が持っていないものへの憧れだと思う。好奇心を持って行動し前へ進む。憧れを持って人と接する。それが昨日の自分より今日の自分が成長し魅力ある人間に育つ術だと思う。好奇心が物事を極める原動力になる。憧れがその対象に対する尊敬と敬意を産みその対象に近づうとする原動力になる。

昨日より一歩前へ進んでいる自分。そんな自分を日々達成するために良き出逢いを求めて行こう。憧れる人との出会いを求めて。

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