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【カウントダウン6】2020年6月7日のブログ(七回目)

(よいっしょっと。重い腰をあげましてと。)
おはようございます。さて、日曜日です。7回目となりました。

7回目・・・まあ、よく頑張りましたよね。
思うところあって始めたこのブログも十分に爪痕を残すことができ、そろそろ惜しまれながらのエンディングを迎えても良いのではないでしょうか。
(え?何も残してないよ?)

最初はほんの出来心でした。
・・・ずっと気になってる、あのお店、いつも何を売ってるんだろう。
ときどきオシャレな人たちが出入りしてるんだよなぁ。
ちょっと覗いてみたいな。
よし、ちょっと覗いてるだけですー、っていう顔して中に入ってみよう。
店員に会釈されてもさらりと笑顔で返す余裕をもってね。
重厚感のあるドアだ。
ガチャッ。
・・・こ、んにちはー。。。
ドアの向こうにまたドア。
・・・なるほど、このパターンか。因みに、そのドアを開けると??
ドアの向こうにまたドア。
おっけ、大丈夫。余裕はある。
ドアの向こうにまたドア。その向こうにドーア。ドーアの向こうにドアア。ドアアの向こうにドッア。ドッアの向こうにドアラ。
(え?ドアラ?)
「ちょっと!ノックくらいしたらどうだい?(ドアラ)」
ドアラくんからの千本ノック。
【強制終了】

はい、余計な爪痕(傷跡)を残しました。そんな7回目のオープンザドアです。
(お、なんか調子に乗ってる回になりそうだねー頑張れ、自分。次の扉を開けると「壁→崖」かもしれないから気を付けて!)

さて、ね、ため息しか出ませんね、先週の発言。
「あと人を傷つける文章は書きたくないです。
できるなら人を救える文章が書ける人になりたいです。」


・・・そうですかぁ。。
とりあえず、黙るよね。
闇ってこんなに深いんだなぁ。(南キャンの山ちゃんが裏で言ってそう。)
人を救う文章って何だ・・・?

・・・うーん、トイレに行ってきます。

はい、戻ってきました。
幼稚な発言に付き合わせてしまってホントに申し訳ないです。もうすぐ40歳、一児の父です。
文章で救われたことってあります??救われるって表現が抽象的に過ぎる、か。ごめんなさいねぇ。
人を救いたいって言っておきながら、一番救われたいのは自分なんだな。
それこそ祈りなのか…、宗教なのか。。
神に捧げる文章。これが罪の告白なのか…。

・・いやいや、違うって。もっと、なんというか下衆いのよ。
リアルを追求したいのよ。
宗教にリアルさはないじゃない。崇高さ(うさん臭さ)はあっても。
(プロテスタントの中学校に通ってて毎日礼拝してました。教会の雰囲気大好きです!)
詩的で私的で素敵なエッセイを書きたいわけじゃないのよ。
他人が書いてたら読み飛ばすだけの文章じゃない。
そのページをめくるときにシナプスが発する信号は「中身からっぽだなぁ」だよ。
(これ全部自分に言ってます。)

【コンプレックスと向き合う】

いま絞り出したフレーズです。
コンプレックスとの葛藤なのかもしれません。この文章は“コンプレックス”との戦いです。
この人生で果たせなかった想いよ、もう俺の手から離れていいんだよー。
しーん。。静寂。。

(何もなかったかのように)救われる文章でいうと、底の浅さが知られて恥ずかしいですが、西加奈子の『サラバ!』には救われました(2015年、直木賞)。えげつないほど泣いた。
又吉のいう無敵な状態になったというわけではなく、諦めた自分を肯定も否定もしない、でも肯定する感じ。
だから自分はもう救われてるんです。

さて、なんだかキリが良くなったので、章立てして、この章は終わりにしたいと思います。
【第一章 はじまりはほんの出来心】・・・でした。
第二章からは、不安のない日常について考えたいと思ってます。
え、まだ続くの?と思いましたよねぇ。
俺も思う。。
また来週にお会いしましょう。アラート発令中です。夜の新宿は注意ですね。ではでは!

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