見出し画像

言語化能力

後期の授業が始まった。

後期は,2年生・3年生ともに,文章を書く機会を取り入れている。

理由は,最近,論理的な思考力と表現力を鍛えることが大学教育の一番の使命ではないかと考えるに至ったからである。

1年生の入門ゼミでレポートの書き方の基礎などは習っているのだが,他の先生と話をしていると,実際のレポートでそのノウハウが活かされていないという嘆きをきいた。

ならば,オレがやってやろう,と思って始めたのがこの企画(?)である。具体的には,こんな感じですすめている。↓

論述トレーニングのやり方

毎回,授業で扱ったテーマに関わって,簡単な課題を与える。課題と言っても,単に授業内容をまとめるようなものではない。むしろ,授業内容を踏まえて,学生に自分の見解を述べさせるようなものである。具体的には,何かの分析結果や統計を見せて,それに関する学生なりの解釈を書いてもらう。そして大事なのは,その解釈には必ず,解釈の理由をつけて書いてもらう。分量は,A4に5-10行程度が目安。

私のほうは,学生が書いている間,机間巡視をしながら,「よくある論述のパターン」をざっと見てイメージをつかむ。

時間が来たら,解説。といっても,正解は示さない。
その代わりに,「よくある論述例」を示し,そのロジックで議論を展開する場合に多くの学生が陥っていたポイントを解説するのである。

具体的には例えばこんなポイント。
「Aの問題点は何で,なぜそう言えるか」という課題なら,

①まずは,Aの問題点=結論をしっかり示すこと。よくあるのが,Aに固有のものではないことをAの問題点として取り上げているケース。例えば,会計システムの問題点を論じるときに,よく考えてみれば会計システム以外の経営管理システムにおいても当然のように生じうることを問題点として挙げてしまっている場合など。
実はこの課題は,Aの属性や本質を考えることにつながっている。もちろんあり得る回答は一つだけではないけれども。

②次に,その根拠を極力明確に具体的に示すこと。つまり,①で示した例えば,「会計情報では現場が見えない」という場合,そのこと自体はもちろん考え得ることなのだけれども,では会計情報を何にどのように使うときに,どういう現場がどのように見えないのか,そしてそれはなぜなのか。さらに,それのどういう点が問題なのか。①では抽象化する力が必要となるけれども,これに対して②では具体化して人に伝える力が必要となる。

今は論述のストーリー仕立てを板書で図説して解説しているけれども,具体例があったほうがイメージが湧きやすいのではないかとも考えている。そのため,次回は試しにプロジェクターで回答例を見せながら話しても良いかもしれないと思っている。

なぜこんなことを始めたのか

きっかけは,本学に着任して以来4年半担当しているFD委員の仕事の中で生まれた。

他の多くの大学でもおそらくみられるように(学生の話によると,最近は高校でも随分熱心にやっているらしい),研修では全面的にアクティブラーニング押しである。

特に,こと教室での授業に関していえば,グループワークやグループ発表の実践を通して学生に「自ら授業のテーマについて考える,説明する」ことがねらいとされている。そのため,本学では授業アンケートの項目にまで,そういうことをやる機会があったかどうかを評価する項目が入っている。

で,グループワークやグループ発表は,大人が参加する諸々の研修会などでもやることなので,そのこと自体を批判するつもりはない。

ただ,これをそのままやってみたところ,大きな問題にぶつかった。

その第一は,学生による問題意識の差の分散である。

アクティブラーニングはそもそも,生徒が能動的に学ぶことによって「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」(2012年8月中央教育審議会答申)ものとされる。

そこでこの理念に沿って私もグループワークとやらを授業に取り入れたわけだが,大きな問題が2つあった。

一つ目は,問題意識のズレの問題。私もグループワークのたぐいを一生懸命やってきた。だが,授業に対する意識が実に多様な学生を集めて,グループでのワークをやっても,なかなかこれが難しいのである。グループの中に必ず,アリとキリギリスが出てくる。アリになった学生は当然不満を覚える。逆であればまだしも,熱意ある学生のモチベーションをそぐのはこれまた問題である。それならということで,グループの作業をやめてみたのである。

また第二の問題。それは,そもそも大学の授業においてこの方式を取り入れることが(私のやり方が悪かっただけかもしれないが),どういう効果を期待しているのかが抽象的過ぎてよくわからなかった。

多様性や創造性をはぐくむって,どういうことだろう?

多様性や創造性なんてもともと人それぞれに備わっているもののはず。発揮できているかどうかはもちろん別だけど。

それよりまず,そういう能力を発揮するための前提として,データや事実をきっちりと踏まえたうえで,論理的・具体的な表現ができることが大事なのではないだろうか。

少なくとも文系の場合は,大学で学んだことが役に立っていると思えている学生は,大学で学んだことを学生時代にアルバイトやサークルなど色んなところで活かそうとした学生であることが多いようだ(出所)。

これは弥生会計の使い方を教えてもらって助かったということかといえば,おそらく違う。もっと抽象的な,会計的思考,経営学的思考(というものがあるのかわからないが)といったものであろう。

そもそも,どこの学部で何を専攻したかなんて,少なくとも事務系採用の場合,企業はあまり気にしていないだろう。それに,何の学問を学んだから社会で役に立つとか,何の学問だから役に立たないとか,そういうことを論じること自体不毛である。知識や理論なんて,いつどこで何に役に立つかわからないのである。

それならば,「会計学を学ぶ授業」は,会計学の知見を学んで事足れりとするよりは,会計学の知識を道具として,思考訓練(データの論理的解釈とその解釈の論理的・具体的表現の練習)をやる場として提供すればどうかと考えたのである。私は会計学が専門なので,会計学を題材にしてこういうことをやっているけれども,おそらくどこの分野でやっても問題ないだろうと思う。

変化の激しい時代を生きていかねばならないからこそ,思考を放棄することなく,冷静に現実を解釈し,論理的に次の策を考えることが我々に求められているのではないだろうか(と,私のようなたかだか40男が言うのはおこがましいかもしれないけど)。

蛇足になるかもしれないが,私は国民文化の専門家ではないけれども,最近実は,この国には想定外の危機的事態に瀕したときに論理的議論の積み重ねを放棄してしまう傾向があるのではないか,という問題意識があった。

最近「1937年の日本人」という,日中開戦に関わる本を読んで知ったことがある。それによると,当時,最初は日中開戦に反対していた議員やマスコミも,軍部大臣現役武官制(陸軍大臣と海軍大臣は現役の軍人にしないと内閣を作れないという制度)のもと,なし崩し的に開戦の流れに乗ってしまい,世論はすっかり開戦ムードへと変わっていってしまった。それで1940年の東京オリンピックも幻となってしまった(このへんは最近,日曜大河ドラマ「いだてん」でも取り扱われていますが)。

とはいえ,日本人の国民文化については,私の解釈に不正確なところもあるかもしれないので,専門家の方がおられたらぜひご指導いただきたいと思っている。

※ちなみに、この記事も最近読んで結構衝撃でした。出口治明氏によれば、低学歴とは大学の偏差値が低いことではなく、学び続けないことだそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?