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「社会」?について考えてみた

梅雨が近づき,だいぶジメジメしてきた。
ので,今日はアジサイの写真。

今日は,ほとんど何も引用せず,思いついたことを書いてみる。

企業勤務経験のない教員が,よく「社会に出たことがない」「世間知らず」であると言われる。

ここでいう社会というのは何ぞや?

辞書で調べてみた。それによると,

1 人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「社会に奉仕する」「社会参加」「社会生活」「国際社会」「縦社会」

2 人々が生活している、現実の世の中。世間。「社会に重きをなす」「社会に適応する」「社会に出る」

3 ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の社会」「海外の日本人社会」「上流社会」

4 共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの社会」

5 「社会科」の略。

…らしい(出所:デジタル大辞泉)。

ここで問題にしたいのは,2と3である。

「社会に出たことのない」存在として教員を揶揄するときには,おそらく2の意味で「社会」が使われている。
そしてこの言葉は,時として公務員に向けられることもあったように思う。
アルバイト経験のみの学生に対して使われることもある。
ということは,民間組織において,ピラミッド型の組織階層に正規従業員として所属している場合のみ,「社会に出たことがある」と認められるというところだろうか。

なぜだろうか?

思うに,この背景には,自分の行動が何らかの制約要因によって規定される度合いを強く認識していることへの,ルサンチマンというのがあるのではなかろうか。この制約要因を2つに分けて考える。

(1)市場環境
民間組織では,組織の業績は市場環境の変動によって大きく影響を受ける。これは,一従業員の力では如何ともしがたい強い力である。
同時に,個人の業績も,相対する顧客の行動の不確実性(顧客がどんな行動をとるかわからないということ)によって規定される。
これも管理不能である。
それに比べたら,市況に振り回されない教員や公務員はお気楽であると思われるかもしれない。

(2)上位階層
組織階層があると,個人の行動はそれによって規定される。
上司と自分の意見が対立することもある。時には自分の意見も通るかもしれない。が,議論においては上司のほうが立場は有利というのが通常である。
上位階層に行動を規定されたくなかったら,組織から飛び出すしかない。
しかし,こと正社員就職に関して言えば,日本の労働市場の流動性はまだ十分ではない。
だから,飛び出す勇気のある人はまだ少数派かもしれない。
あるいは,飛び出すことないし飛び出す可能性を念頭に置いている,アルバイトなる立場は,この上位階層に拘束されないという意味で,お気楽扱いとなる。

仕事においてこのような「苦しみ」を伴わない者は,「苦しみ」の経験が浅い「社会に出たことのない世間知らず」とみなされる。

しかし,だ。

この2つの管理不能要因は,誰に対しても何らかの形でつきまとう。
これら2要因は,一つの会社組織の中で完結しているものとは限らないからである。
アルバイトにはアルバイトで,自分のアウトプットを規定する要因がそこかしこに存在する。それも,アルバイト先の世界だけではなく,彼ないし彼女が生きるあらゆる世界に。
教員とて,公式的な組織階層は民間企業ほど明示されたものではないかもしれないが,それでも「見えない階層」もあるかもしれない。対先輩,対保護者,場合によっては対生徒なども。

そう,人はいろんな顔を持っていて,一人の人間は色んな世界と接している。

作家の平野啓一郎氏が「分人」という言葉で表現したように,通常一人の人間は複数の顔を持ち,複数の世界で生きている。

いろんな分人をやりながら,いろんな世界で制約を受けて生きている。

制約が外から見えやすいか見えにくいかという違いはあるかもしれない。しかし,制約があるのかないのかという点で言えば,所属組織によって優劣をつけることは容易ではない。

本来,職業や所属組織によって制度や慣習に埋め込まれた制約要因の構造が異なっていることは,前述の3の意味の「社会」によって表現するのが妥当な語法ではなかろうか。

教員の社会もあれば,アルバイトの社会もある。公務員の社会もあれば,民間組織の社会もある。
もっと言えば,同じ民間組織でも,私がかつて勤務していたような公益事業の組織(市場競争にほとんどさらされていない)内部の社会もあれば,きわめてレッドオーシャンな市場で日々競合と格闘している組織の中の社会もある。

しかも,である。

仮に,教員が「社会に出たことのない存在」≒「協調性が乏しい,頑固,理想論者,…」だったとしよう。そういう教員という生き物で構成されている学校という組織において生きることは,ある意味非常に労苦を伴うものであるかもしれない※。時には民間組織以上に。
※私がその渦中にあるという意味では全くありません。

世間知らずだらけの組織で人とうまくやっていこうと思ったら,酸いも甘いも知っていて人の気持ちが理解できる人とやっていくことよりも,はるかにハードでしょ?※
※私がその渦中にあるという意味では全くありません。

だから,そもそも社会を2の意味で用い,社会を知る者と知らぬ者に二分して後者をバカにすることに合理性はない。社会は実に多様で,人の行動を制約する要因の構造によって世界を区分するのであれば,その構造の種類だけ社会があるはずである。

したがってこのような区分によって人を分類したいのであれば,やはり社会という言葉は3の意味で用いられるほうが合理的であるし,実態に即しているし,感情的にニュートラル(ルサンチマンも差別感情も含まれていない)であると思うのだ。

ただし,以上の主張は,私一人がここで吠えたところで(2の意味での)社会変化への影響力はほぼないであろう。今日のこの思考は,学生をはじめいろいろな人と機会があれば話し合ってより整合性の高いものへと昇華できればと考えている。

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