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趙紫陽(1919-2005)

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胡平 趙紫陽の社会主義初級段階論 2011

胡平《關於趙紫陽若干問題的解讀》在《趙紫陽的道路》晨鍾書局2011年pp.217-233  この胡平の一文は、あくまで参考として読み始めた。ここでは趙紫陽が1987年の十三大で提起した社会主義初級段階といういい方の巧妙さを論じた部分を訳出する。胡平(1947-)は1979年の民主の壁運動で名を成した人物。以下の文章もなかなか文章を書きなれた印象を受ける。 p.222 2.「社会主義初級段階」について  「社会主義初級段階」という言い方は、早くも思想解放運動時に議論(探

趙紫陽「レーニンの独裁理論を批判する」1995年5月1日

宗鳳鳴『趙紫陽軟禁中的談話』開放出版社2007, 161-164 1995年5月1日 1. レーニンの領袖独裁(専制)理論批判  趙紫陽は最初私(宗鳳鳴)と次の問題を話した。レーニンの建党原則によると、党は人民を代表している。しかしわが国の実践の中で一部の党組織責任者は、自分がすなわち党を代表しているとしたいために、自分に反対することは反「党」であり反「人民」だとした。趙紫陽はこうした意識形態と市場経済は相いれないと明確に述べた。  私(宗鳳鳴)は、ここで趙紫陽はまた重大な

Zhao Ziyang 趙紫陽 1919-2005

趙紫陽 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、趙紫陽は中国共産党を追放され、資本主義の危険分子subversiveとして非難されていた。1980年までに古い党の指導者たちが亡くなり、趙は支持favourを回復し、中国の首相になった。彼は1980-87年の首相であり、1987-89年の中国共産党総書記である。  趙紫陽は河南省に1919年10月17日に生まれた。彼は1932年に共産党青年団に加わった。6年後(1938)、彼は党の正式のメムバーになり、そ

Chen Yun 陳雲 1905-1995

陳雲 Chineseposters.net  陳雲は、彼が中国共産党の歴史の実質的に全時期にわたりその政策決定の中心にいたことだけからでも、中国の指導者の中で最も影響力と権力があった一人とみなすことができる。彼は1931年から1987年の間、中央委員会に在籍した。政策決定の中枢(Politburo)に40年以上である。組合組織者としての地下活動のあと、陳は長征(1934-1935)に参加した。モスクワの派遣された(a stint)の後、彼は1937年に延安に戻り、そこで自身

Deng Xiaoping 鄧小平 1904-1997

鄧小平 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、中国共産党政府は前副首相の鄧小平に山高帽を被らせて首都を歩かせて、公衆の前で辱めた。しかし毛沢東の死(1976)後、彼は中国の最高paramount指導者になった。鄧小平は、共産主義の厳格なイデオロギーに抵抗して、自由企業の要素を導入したことで、安定と経済成長の回復に貢献した改革者として賞賛された。しかし、1989年半ばに、純粋に民主主義の抗議者たちに軍事的弾圧crackdownを命じたことで、彼の国際的

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

Mikhail Gorbachev 1931-

ゴルバチョフ By John Simkin Cited from spartacus-educational  Mikhail Gorbachevは集団農場の農業機械工の息子として、1931年3月2日ソビエト連邦のPinvolnoyeに生まれた。  ゴルバチョフの祖父Pantelei Yefimovich Gopkaloaloは共産党の忠実なメムバーで、村のkolkhoz(集団農場)の議長だった。1937年に彼は、NKVD(秘密警察)により逮捕され、Leon Trotsky

ゴルバチョフの経済改革 1985-91

Mikhail Gorbachev in New World Encyclopedia から抜粋  事実上のソビエト連邦の支配者としてゴルバチョフは、1986年2月のCPSU(ソビエト連邦共産党)第27回会議で開始された、glasnost(openness公開性)、perestroika(restructuring再建)、そしてuskoreniye(経済発展のacceleration加速)の導入により、停滞する共産党と国家経済の改革を試みた。  ゴルバチョフは、生活水準およ

趙紫陽 出生から入党まで 1919-38

 蘆躍剛の『趙紫陽傳』INK印刻文学2019年を読み始めた。趙紫陽(1919-2005)については退任後の発言は分かっており、開明的な思想に至ったことは分かっているが、主席になる前のところの人生は、実はよくわからないところがあった。本書でその空隙を埋められると期待して読み始めたが、この本はまず書き方が時間に沿っていないので、よみにくい。別に編年体の趙紫陽伝を書いて欲しいところだ。以下はpp.70-98から抜粋再編集。  まず趙紫陽は河南滑県趙荘の地主(趙荘では二番目に大きな

趙紫陽 灣子会議での発言 1947/06

「地主階級全体について言えば、肉体消滅政策ではない。しかし農民が立ちあがり大罪極悪の地主を殺すことは、指導上は認められるべきだ(写真は湯島聖堂)。敵人が侵入占領すれば、地主は報復する。だから今日農民が反報復を(もっとすごいことさえ)進めるのもまた認めるべきで、これは革命行為であり、農民を信ずるべきだ。」「(日本軍に)抵抗した(抗屬)地主については、(一般の地主と)同様に消滅するべきだ。(日本軍との)抗戦は名誉あることで、抵抗したことは配慮を要するが、しかしどうするかは群衆が

趙紫陽 拡大中央委員会での自己批判 1962/02

広東省委員会を代表して拡大中央工作会議広東組大会で趙紫陽同志が行った自己批判 1962年2月3日午後(蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp,415-416)  (広東)省委員会は討論の中で多くの同志が行った指摘にある「省委員会は広東の問題は重大でなかった、あるいはひどい驕りではないからといって、自己満足してならない」という意見に完全に同意する。この話は大変良い意見であり、省委の警鐘(警惕)となるものである。経験が我々に教えるところでは、わずかに好評でまったく警鐘

趙紫陽と逃港事件 1962/04-07

 蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp.446-455をまとめた。  新中国が成立したあと、新中国で政治的な弾圧の波が高まるたびに香港に逃れる人がいた。1962年4月から7月。大陸の飢餓からのがれようと10数万といわれる人々が、深圳にあつまったとされる。この「難民」にどう対処するか。このとき現場で対応にあたったのが広東省委第三書記の趙紫陽であり、北京から指示を出していたのは周恩来である。周恩来は収口命令(閉鎖命令だろうか?)を出したという。  趙紫陽はこの問題

趙紫陽と内蒙古、広東 1971/05- 75/10

 以下の資料をまとめた。   盧躍剛《趙紫陽傳》INK印刻文学生活雑誌出版2019年   罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社2015年   《中国共産党簡史》人民出版社2011年  《増訂新版 ”文化大革命”簡史》中共党史出版社2006年   趙紫陽が内蒙古にいたのは10ケ月ほどにすぎない。1971年5月内蒙古自治区革命委員会副主任として赴任。10ケ月の内蒙古のあと、1972年3月北京を経て、広東省革命委員会副主任として広東に赴任している(なお1974年4月

四川での趙紫陽 1975-1980

 1975年に趙紫陽は広東から四川に入った。ここで5年の治世を経験し、1980年に党のトップに躍り出る。趙が四川にはいったとき、四川の人口は9000万を超えていた。重慶市(10.3万平方キロ)が直轄市として分離される(1997年)前、四川の面積約57万平方キロは日本の1.5倍である。省のなかでは最大の大きさである。趙紫陽は1980年2月に中共中央政治局常任委員となる。8人に常任委員のなかで最下位だが。3月に中央財政経済領導小組が設けられその組長に就任。4月には国務院副総理とな