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薛暮橋(1904-2005)、孫冶方(1908-1983)

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薛暮橋(1904-2005)そして孫冶方(1908-1983)の関係資料を採録。二人はかなり肌合いが違うが、上海そして北京で接点がある。
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薛暮橋 (1904-2005)

百度百科(全訳) 薛暮桥(シュエ・ムーチアオ 1904年10月25日ー2005年7月22日) 元の名前は雨林、江蘇無錫の人。1927年中国共産党に加入。1938年から1942年まで新四軍で働く。新四軍教導総隊訓練処副処長。通俗著作『政治経済学』教科書を書いたが、それは新四軍幹部の育成(培训)教材となった。中華人民共和国が成立後、政務院財政経済委員会秘書長と私営企業局局長とを兼任したほか、国家統計局局長、国家計画委員会副主任、全国物価委員会主任、国務院経済研究所中心総幹事(

薛暮橋 生平

维基(wikipedea) 薛暮桥(シュエ・ムーチアオ)(1904年10月25日―2005年7月22日) 江苏无锡(チアンス・ウーシ)の人。元の名は薛雨林(シュエ・ユーリン)、経済学者、中国科学院院士、元国家統計局局長。2005年第一回経済学傑出貢献賞受賞(獲得)。 経歴(生平)  1927年中国共産党入党。沪杭甬铁总工会常任委員、組織部長を務めた。1931年より南京民衆教育館において「民衆週報」を編集、中国農村経済研究会理事、「中国農村」月刊主編務めた。1935年罗琼

1904年没落地主の家庭に生まれる

『薛暮橋回憶錄 第2版』天津人民出版社2006年1月pp.1-3より p.1 1. 革命事業への献身  没落した地主家庭から歩み始める  1904年(清朝光緒30年)10月25日、私は江蘇省無錫県礼社鎮に生まれた。父は私を薛與齡と名付けた。無錫県は江蘇省南部に位置し、南は太湖に接し、風景は秀麗で、魚米の里として著名である。20世紀初めの無錫には、すでにいくつかの綿布工場(紗廠)小麦粉工場、生糸工場があった。20年代に至るまでにはすでに100近い工場があって、蘇南の

監獄大学  1927-1930年

『薛暮橋回憶錄 第2版』天津人民出版社2006年1月pp.15,17 p.15 当時私は甲監五号に収監されていた。同牢には鈡鼎祥同志と、浙江省委員会書記の張秋人同志がいた。張はかつて黄埔学校の政治教官で、世界革命史を教えていた。彼は1927年9月27日に杭州に到着し、2つの党の会議を招集した。浙江省委員会の改組を宣言し、党の工作を処理した。9月29日、西湖近くで、何人かの黄埔学校の学生と出会い、逮捕された。併せて野合した別の黄埔学生も連名で蒋介石に報告した。張は死を免れない

薛暮橋 1959年11月の劉少奇同志との思い出(回憶錄1996)

(「薛暮橋回憶錄」天津人民出版社1996/2006より) (写真は心光寺石仏。右側に文化4年1807年という年号の碑文がある。子供を抱いた母子像であることに気づきはっとした。)  p.198 (1959年11月。劉少奇が海南で組織したソ連の政治経済学教科書の読書会に参加して)「大躍進」と人民公社化運動の中にあって多くの同志は程度の差はあるが、客観経済規律を軽視していたが、しかし(劉)少奇同志は読書会においていつも客観経済規律の重視を強調し、中国の実際情況から出発すべきことを

中央党校で中国社会主義経済問題(初校)執筆 1977年

(以下は「薛暮橋回憶錄 第2版」天津人民出版社2006年1月より) p.238 1976年10月6日 中央政治局は果断な措置をとり、「四人組」を粉砕し「文化大革命」という災難を収束させた。しかし1977年から1978年という2年間は、誤った路線の修正は前進せずに徘徊し、重度の阻害にであった。当時党の中央主席を担った華国鋒同志は四人組を粉砕したことでは重要な作用をした。しかし指導思想は引き続き、左であった。彼は「すべて論(凡是論)」を堅持し(すなわち、すべては毛主席が決定した

薛暮橋 鄧小平宛上申書1978/04/18 社会主義経済問題研究の出版1979/12

(筆者記載なし)《改革開放中的薛暮橋:冲破左傾“禁區” 》載《中國改革信息庫》 2014年7月17日 (閲覧2015年6月15日)  1976年四人組は粉砕され、「文革」の大災難(浩劫)は終わったと宣言された。しかし1977年と1978年の2年間、全国の誤った路線を正す(糾正)工作はこれまでになく何も決められなかった(徘徊)。薛暮橋は憂いのあまり(憂心忡忡)何度も熟慮したうえで、率先して高い目標、高速度に対して質疑を提出することを突破口に中央に上書して、得失を直言して(直陳

社会主義経済問題研究(第七稿)の執筆 1978年11月~79年1月

(「薛暮橋回憶錄」天津人民出版社1996/2006より) p.238 1976年10月6日 中央政治局は果断な措置を取り、「四人組(四人幫)」を粉砕し「文化大革命」というこの災難を収束させた。しかし1977年と1978年というこの2年は、正されるべき誤った路線の仕事がなお徘徊しており、深刻な障害となっていた。当時中央主席を担任した華国鋒同志は「四人組」粉砕では重要な役割を果たした。しかし彼の指導思想は依然「左」のモノを引き継いでいた。彼はすべて論を堅持し(すなわちすべて毛主

孫冶方 真理は時に少数の手に 1979

 以下は孫冶方《經濟學界對馬寅初同志的一場錯誤圍攻及其教訓》載《經濟研究》1979年第10期59-66の第三節「真理は時に少数者の手に(真理有時在少數人手裏)」その全訳である(op.cit., 63-64)。馬寅初の人口理論については、人口縮小が始まった現時点で評価が変わってくる可能性があるが、ここで注目したいのは、1950年代末の馬寅初に対する苛烈な批判、そして孫冶方のこうした批判への再批判である(写真は順天堂大学病院7号館エントランス 2021年6月25日)。 ・・・・・

社会主義の建設(薛暮橋「中国社会主義経済問題研究」第1章1979/1983)

薛暮橋「中国社会主義経済問題研究」(1979年人民出版社 なお1980年外文出版社から邦訳 手元の1983年版を原書として引用する。) → 最初の第1章では、中国で社会主義化のために取られた措置(共有化 協同化)が、その生産力の水準と対応していなかったために、かえって生産力を低下させたことがまずと指摘される。共有化・協同化で、労働の成果が、個人に帰属しなくなり生産の意欲が損なわれたことが重要だと思われるが、その点は書かれていない。農業に関しては、生産単位を小さくすること、個人

工商業の社会主義改造(薛暮橋「中国社会主義経済問題研究」第2章1979/1983)

薛暮橋「中国社会主義問題研究」(1979年 人民出版社 なお1980年外文出版社から邦訳 手元には1983年版 人民出版社もある。以下ページ数は邦訳版-外文出版社のもの)  → 第2章 ここでは所有制の改造に伴う問題が記載されている。一つは実際にどのように改造が進められたかである。ここでは順調に進められたことが書かれているので、プロセスを美化しているように思える。改造に不満をもったり反対した人たちなどの問題が消えているように思う。記述の最終部分では、商工業については、商品の

農業の社会主義改造 (薛暮橋《中国社会主義経済問題研究》第2章1979/1983)

薛暮橋「中国社会主義問題研究」(1979年 人民出版社 なお1980年外文出版社から邦訳 手元には1983年版 人民出版社がある。こちらを原書として引用する)第2章後半。邦訳pp.61-78 原書pp.30-50(写真は心光寺石仏。) ここで最初に引用されている毛沢東の言葉邦訳p.62。「分散的小生産こそ封建支配の経済的基礎」這種分散的個體生產,就是封建統治的經濟基礎「このような状態を克服する唯一の方法が、次第に集団化することである」《組織起來》毛澤東選集第三卷 これは毛沢東

薛暮橋 私営経済開門を提起 1979/03

 薛暮橋の貢献として知られることの一つは、都市の待業青年問題の解決のために、個人事業=私営経済を認めるために尽力したことである。改革開放中的薛暮橋:探索社會主義市場經濟改革 http://www.reformdata.org/content/20140717/26862.html 2015/06/15閲覧より, 生産資料(手段)の個人所有というこの方向が、さらにその先に進むのに多くの時間はかからなかった。 彼(薛暮橋)は理論界で最も早く個人(個体)私営経済の発展

薛暮橋  書面報告 1979/03

 這是在理論工作務虛會議上的書面發言。“根據實綫經驗回顧二十多年的經濟工作”載《薛暮橋改革論集》中國發展出版社2008年11-25, 22以降passim 。なおこの報告の日付けは1979年2月とするものもある。   実は薛暮橋(シュエ・ムーチアオ 1904-2005)という人をどう捉えればいいか迷いが長年ある。《中國社會主義經濟問題研究》人民出版社の著者(正確にいえばとりまとめ責任者)として、改革開放政策の理屈付けを展開してみせた人物。  彼の《回憶錄》天津人民出版社200