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鄧子恢、張聞天、李鋭

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農業改革で毛沢東と対立した鄧子恢(1896-1972)。毛沢東と対立し社会主義経済論の研究を進めた張聞天(1900-1976)。秘書として毛沢東を知る李鋭(1917-2019)。
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記事一覧

鄧子恢   我的自伝1896-1927

(以下は『鄧子恢自述』人民出版社2007年11月の翻訳pp.3-7である タイトルの頭の番号は便宜的につけたもの 写真は1953年11月龍岩にて 自述p.245より) p.3 私の自伝 姓名 鄧子恢 1.幼名 鄧紹萁(秘密工作のとき鄭建中,老林,老李などの偽名を使った) 性別 男 出生年月 1896年 旧暦庚申七月九日生 籍 貫 福建龍岩県東肖區龍泉井村人 2.~4. 略 5.革命に参加する前の個人の略歴 1913年本県省立第九中学校入学、1916年卒業、19

鄧子恢1961年出版的回顧録 福建省での粛清事件(1930-31)について

 1961年に出版された回顧録の中の一文であり、1930-1931年に生じた福建省(閩西)の中国共産党内にで起きた社会民主党狩りという、反対派粛清(肅反)事件を取り上げている。この事件は江西で起きたAB団事件とともに、多くの冤罪を生んだ。殺された被害者は6000人以上とされている。そもそも社会民主党もAB団も存在自体が疑わしいとされる。リンチや威嚇により自供を迫り、自供すれば直ちに処刑した。鄧子恢はこれを批判している。1961年にこの問題に触れ事実を公にしたことは、勇気を示し

鄧子恢 四つの自由を提唱 1948/08

 1948年8月。当時、鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)は中原局の第三書記。第二書記の陳毅とともに中原局の実務にあたっていた。財政問題とともに幹部を大量に要請確保する必要があった。また中原局の司令部があった河南省宝丰には、開封の学校の教員や学生があつまっていた。そこで中原軍政大学とよばれる、軍人養成の大学が作られることになった。1948年8月下旬、その全校教員学生を対象に「党の総路線と総政策」と題した報告を行った。この報告は、手元の《鄧子恢文集》人民出版社1996

王丰 鄧子恢與“四大自由” 1995

この論文は「党史研究」の1995年第6期に登場した論文。私自身かねて関心をもって紹介してきた、鄧子恢の四大自由論について、正面から論じている。書誌事項は以下の通りで、今回はこの論文を全文訳出する。 王丰《鄧子恢與"四大自由"》載《中共黨史研究》1995年第6期72-74,64. p.72 建国前夜と解放初期、鄧子恢は異なる場合に異なる”四大自由”を語り、議論(争論)を引き起こし、批判を受けた。鄧子恢自身も自己批判した。数十年が経ち、そのときの歴史を回顧することは、教訓

鄧子恢 私人資本を援助せよ 1949/10/31

(解題)論華中城市建設新方針。這是鄧子恢在中共武漢市代表大會上的報告。鄧子恢文集,人民出版社,1996年,pp.237-258 (新民主主義段階の経済の在り方についての鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)の議論である。大変明快に私人資本の発展を認めることを打ち出している。つまり、彼の考えでは、私人資本を発展させることが、この段階、つまり新中国建国にあたっての政策課題だった。こうした穏健な政策がとられていれば、戦後の中国の様相は大きく変わったのではないか。)(写真は礫川

董時進の土改上申書(1949)

 以下は董時進(トン・スウチン 1900-1984)が1949年12月に毛沢東にあてて出した上申書全文とその解題の翻訳である(「1950年、董時進上毛主席書」『文学城』2016年11月3日の翻訳)。この上申書は『炎黄春秋』2011年第四期に掲載され広く知られるようになった。その内容は、土地改革の停止を情理を尽くして求めるものであるが、歴史の歯車を止めることはできなかった。現在、董時進に関する学術論文は何本か出ているが、それらはこの上申書自体への言及を避けているように見える。な

鄧子恢 土地改革後の農村工作 1951年12月12日

 鄧子恢自述 人民出版社 2007より 長江日報1951年12月13日掲載 写真は1957年2月 全国農業労働模範代表会議にて 鄧子恢伝 人民出版社 あ第二版 2006 冒頭部分より  私は土地改革完成地区における農村工作の中心任務問題について少し話したいと思う。中南区は来年4月末までには、ちょうど1億3000万の人口地区で土地改革が完成する。それゆえにこの問題を明らかにすることは、切迫した必要性がある。  土地改革後、我々の農村における圧倒的にすべての中心任務は、明らかに

2.1 中央農村工作部への初登庁

(杜潤生「杜潤生自述」人民出版社2005より)(写真は占春園) p.24 1952年11月、中央はしばらくの間、検討(籌劃)したあと、中共中央農村工作部の設立(成立)を決定した。鄧子恢を部長、陳伯達、廖魯言を副部長、私を秘書長とする。私は国務院第四辦公室(すなわち農業辦公室)副主任)の兼務であった(その主任もまた鄧子恢が兼任であった)。  農村工作部の中心任務は中央組織の支援と広大な農民の互助合作運動の指導であった。このほか農村工作の各項具体業務は政府の農業、林業、水利等

匹夫もその志を奪うことはならず(論語) 梁漱溟和毛澤東的大吵 1953/09

(以下はネット上の<禁聞網>からの採録。表題は<梁漱溟触怒毛澤東結局....> 作者は<格丘山>とあり、五十年前に読んだ材料の記憶によるものとある。来源は<華夏文摘>。この1953年の梁漱溟と毛沢東の言い争いは「有名な事件」であるようだ。総路線への公然たる不満、知識人として正面からの異論。毛沢東にここまで正面から言い切った梁漱溟という人もすごい人だと思える。)  1953年9月11日中央人民政府拡大委員会で梁漱溟は大会発言を行い、李富春副総理の重工業発展についての、また

鄧子恢 農業の社会主義改造 1953年11月

(これは1953年11月2-3日、中共福建省第二回代表大会での鄧子恢の報告。新民主主義の時代は終わり、社会主義への過渡に移ったと明確に述べている。しかし同時にそれが毛沢東の認識の変化によるもので、毛沢東の認識は1953年の5月から9月にかけて次第に明確になったものであることも明記している。それに合わせて新民主主義が終わった時期を1949年10月の新国家成立時にさかのぼらせている。しかし変化の認識で毛沢東に同意しながら、鄧子恢は社会主義化が急激に進むことは想定していないことを続

毛澤東-鄧子恢  小脚女人批判 1955/07

薄一波 若干重大決策于事件的回顧より 写真は鄧子恢のもの。(鄧子恢の中央農村工作部部長就任は1953年2月。その後、1955年1月初め、鄧子恢は劉少奇、周恩来らに農村の緊張情況を報告。中央政治局では、農村合作運動を当面抑制(控制)そることを決定していた。この決定について毛沢東は同意していたが、1955年4月下旬、自ら南方を視察、農民の積極性を高いと見て、鄧子恢の方針は、農民の積極性を妨げると判断するように変化した。5月さらに6月下旬と鄧子恢と議論している。この6月下旬の議論は

民主党派・知識人の取扱い   1957

(過渡期について、新中国は共産党と民主党派との関係について一見対等な関係を描いていた。しかしこの関係は、1957年の反右派闘争で根底から覆されてゆく。注目されるのは民主党派と共産党とが相互に監督するといった対等な関係を示唆する表現。もう一つの注目点は、一方で民主党派を思想改造するといい民主党派の縮小を示唆しながら、他方で時間が経過しても党とは別に民主党派・知識分子が新生して存在し党は依然少数派とも読めること。これは一体どういうことなのか?) 李維漢 回憶與研究pp.623-

7.反右派闘争と整風運動 1957

李維漢 回憶與研究 より p.641 1956年社会主義改造が基本完成した後、党は全国各民族人民を全面的に大規模に社会主義建設に転入しはじめた。これは党の八大路線をまじめに貫徹するものだった。しかし1957年から開始された、党内の指導思想に生み出された階級闘争を拡大化する左の誤りは、反右派闘争の厳重拡大化をもたらし、全国で大規模社会主義建設の歴史過程(進程)への転進(転向)を打ち砕いた。  1957年夏季以後、党の指導方針には重大(厳重)な誤りがあり(失誤),国家政治生活と経

彭徳懐 給毛主席的信 1959/07

彭徳懐同志于一九五九年七月十四日給毛澤東的信。《彭德懷自述》人民出版社2019年(1981年出版のものの再版)238-243 廬山会議で彭徳懐失脚の原因となった手紙の全文である。この私信のどこが、毛沢東の苛立ちを誘ったのか(毛沢東はこれを《彭徳懐同志的意見書》として印刷して会議参加者に配布。同調者が多いとみるや反撃に転じた)。綿密に検討する価値はあるだろう。ただこの短い手紙だけを理由に毛沢東が、彭徳懐を追い詰めたとは思えない。二人の間の長年の確執、毛沢東とすれば彼に異論を提起