マガジンのカバー画像

陳独秀、胡適、顧准

49
陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
運営しているクリエイター

2018年12月の記事一覧

顧准伝略 陳敏之 1988年4月

顧准『從理想主義到經驗主義』光明日報出版社,2013年,pp.197-201(陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。) 私の五番目の兄である顧准は1974年12月3日肺がんという不治の病を患い亡くなった。以来すでに14年が経った。時間が流れ去るとともに、家族を失った人の高ぶった感情も過去のものとなり、より多く理性的に考えるようになった。とはいえ彼の伝略を彼の家族として書くことになれば、少し感情が入ることは

顧准と会計 陳敏之 1984年7月

 これは顧准の『会計原理』が知識出版社から刊行されるにあたって、『読書』という雑誌に陳敏之が寄稿した「顧准と会計」と題した文章の一部である。1984年7期 pp.130-136 著者陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。ここでは、文革開始以降についての記述が注目されるのでその部分を訳出した。注目は、北京に戻る前、強制労働の状況にあって、顧准がなお日々猛烈に学習した様子、1972年に奇跡的に陳敏之と顧准との連絡が回復したこと、1973年末から彼が、かねて

『理想主義から現実主義へ』陳敏之序文(1988年8月)

『顧准文集』民主與建設出版社, 2015年 pp.154-156より 陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。   この本は顧准と私が1973年と1974年の2年間に通信中に行った学術討論をまとめたものである。顧准は私に学術的なメモ(筆記)の形に書くことを求めた。1965年末に顧准が房山監督労働から北京に戻ってから、私と彼の通信は中断していた。1967年11月から私自身も自由を失い、以後数年は互いに生死もわか

『理想主義から経験主義へ』出版追記 陳敏之 1992年8月

顧准『從理想主義到經驗主義』光明日報出版社,2013年,pp.190-196 (陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。)(写真は渋谷スクランブル交差点 2020年6月2日) 私は運命は信じないが、実際は時に運命の存在を認めざるを得ないことがある。五番目の兄である顧准の運命は良くなくて、生涯苦労の連続(坎坷)であった。死後の運命も良くなく、不幸続き(多舛)であった。彼の遺著『理想主義から経験主義へ』は、整理

趙紫陽「レーニンの独裁理論を批判する」1995年5月1日

宗鳳鳴『趙紫陽軟禁中的談話』開放出版社2007, 161-164 1995年5月1日 1. レーニンの領袖独裁(専制)理論批判  趙紫陽は最初私(宗鳳鳴)と次の問題を話した。レーニンの建党原則によると、党は人民を代表している。しかしわが国の実践の中で一部の党組織責任者は、自分がすなわち党を代表しているとしたいために、自分に反対することは反「党」であり反「人民」だとした。趙紫陽はこうした意識形態と市場経済は相いれないと明確に述べた。  私(宗鳳鳴)は、ここで趙紫陽はまた重大な

雑誌「東方」の発禁 1996年

及川淳子『現代中国の言論空間と政治文化』御茶の水書房 2012によると1996年に「東方」という雑誌が発禁処分を受けている。pp.108-109 その理由は、文革30周年に際して特集を組もうとしたことが、文革に関する研究や報道を抑制している当局の方針に合わなかったこと。また1996年第二期に顧准特集号を組み、その中で掲載された李鋭の論文が批判を受けたとしている。マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東のどこが正しいか、どんな過ちを犯したのか。という李鋭の記述が、マルクス主義に