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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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#スターリン

スターリン、トロッキーの中国認識(1927-29)

 以下は曹泳鑫《馬克思主義中國化:基本認識和實綫》學林出版社2015年pp.57-61の一部を訳出したものであり、スターリンやトロッキー、陳独秀にもどって、曹泳鑫の記述の正確さを細かくたしかめてはいない。  ここでは1927年の蒋介石による反革命以降、トロッキーが中国革命について述べたことについての理解の一助として、そして、この時期のトロッキー派ー陳独秀が党内右派あるいは取消派と呼ばれていることを理解するための、一つの参考資料としてこれを訳出しておくことにする。 なお

Leon Trotsky 1879-1940  中国革命論 1927-1938

Cited from BBC Historic Figures  Trotskyはロシアにおけるボリシェビキの権力掌握において鍵になった人物。ソビエトの共産主義者の体制(rule)の初期段階において、ただVladimir Leninに次いで第二位にあった。しかしレーニン死後の権力闘争でJoseph Stalinに敗れ、亡命中に暗殺された。  TrotskyはLev Davidovich Bronstein(本名)として、1879年11月7日に当時ロシアの一部だったYanov

任建樹「陳独秀の最後の見解」2008年1月

解題                             福光 寛  以下は任建樹《陳獨秀的最後見解》載《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016pp.184-188の翻訳である。なおこの任の記事は《社会科学報》2008年1月17日からの採録である。任建樹(1924-2019)は陳獨秀著作選の編集にあたった人物として知られる。以下の文章は任が83歳のときのもの。2019年11月に任は亡くなった。任が陳独秀の研究を長年続けたことの意義については、南京財経大学の石鐘揚が、毎日

陶希聖「陳独秀について」1964

(解題 以下は陶希聖《記獨秀》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.123-138 の翻訳である。陶希聖は内容からみて、陳独秀のおそらくもっとも身近にいた友人の一人といえる。幹部派、反対派、トロッキー派などさまざまな左派グループの関係や考え方、その中での陳独秀(1879-1942)の位置、などを考える上で参考になる資料である。陶希聖(1899-1988) は中国の近代政治史で大きな役割を果たした人物の一人。経歴をみると、様々な要人との交流も多く、蒋介石(1887

顧准 直接民主と議会清談館(中) レーニンは独裁をもたらした 1973/04/20

 顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.125-128の訳文である。  顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は以下でまずカウツキーとレーニンを対比して、革命を達成した点でレーニンを評価している。しかし続けて、レーニンのやり方がスターリンの独裁を導いたとする。ではどうすべきか。顧准は米国の政治史を引いて、革命後、米国のように政権が交代しうる形を取れば、ソ連で生じた多くの弊害は避け得たとしている。顧准は権力を取るうえで、レーニンを肯定。しかし権力掌握後は、

衛興華《社會主義經濟學》2004

陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社, 2004より第1章社会主義経済学pp.1-22 を抄訳。この章の分担執筆者は中国人民大学の衛興華(1925-2019)である。(写真は成城大学1号館中庭 2019年6月21日) p.1 第一節 社会主義経済学の萌芽時期    一、社会主義経済学の最初の探索  20世紀に入るところで、マルクス主義が中国に伝播し世界で最初の社会主義国家ソ連が建設され、社会主義生産関係を研究対象とする社会主義経済学が生み出され

顧准:探索的過程 by 張曙光 2018

張曙光《中國經濟學風雲史》八方文化創作室,2018 p.948 顧准(グー・ジュン 1915-1974)の探索(人生上の大きな疑問に対して答えを得ようと探し追い求めること)は前世紀の50年代初めに処分を受けてから始まった。その思想の発展と探索の内容からみて、3つの段階を経ている。  第一段階。発芽期(萌芽期)。1952年から1956年ソ連共産党20回大会前後。党校での学習期間が進んでいる。顧准の探索はすでにマルクス主義理論から開始され、(しかしまだ)完全にマルクス主義の範囲に