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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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#顧准

胡適「陳独秀の最後の論文と手紙」序文

解題                           福光 寛  これは、胡適《陳獨秀最後論文和書信序》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年,pp.161-173の翻訳である。この序文には日付けがあり、1949年4月14日夜 太平洋船上とある。中国がこのときどのような状態にあったか、胡適(1891-1962)が太平洋上でどのような旅にあったかも重要である。彼は駐米国連大使として赴任するため、上海からサンフランシスコへの航路にあった。すでに共産党との内戦で国民党の敗

陳独秀 民主主義の正しい評価 1940/07

《陳獨秀 給連根的信(1940年7月31日》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.181-183 陳独秀という人の最晩年、民主主義がまず重要であることを主張して、当時のスターリン、ヒットラー、ムッソリーニの独裁体制を批判。また民主主義のない社会主義には、何の意味もないと喝破。レーニン=スターリンが掲げた無産階級民主主義は、党の独裁にほかならない点で、民主主義の内容がなく、空虚だと徹底的に批判している。こうした陳独秀の議論は、近年、陳独秀の議論が再検討される中

陳独秀 民主主義は人類の発明 1940/09

《陳獨秀 給西流的信 1940年9月》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.185-192,esp.189-190 (写真はツツジ。肥後細川庭園にて2020年5月31日) p.185 西流兄身辺の方へ:数日前に一筆差し上げ、それに付随して超麟兄から手紙が寄せられたが、すでに見られたであろうか。七月二十一日の手紙は守一兄の手紙がすでに読まれたことを示している。病気のために兄からの手紙にすぐに返事はできないが、同様のことである(今猶如此)。(この手紙は書き続け

陳独秀 反対党の自由と議会 1940/11

《陳獨秀 我的根本意見(1940年11月28日)》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.193-198,esp.194-195(写真は肥後細川庭園) p.194 (八)民主主義はおのずと人類が生み出した政治組織であり、政治が消滅するまでも、各時代(ギリシア、ローマ、近代から将来の)多数の階級人民は少数特権の旗幟に反抗した。”無産階級民主”これは空っぽの名詞ではない、その具体内容は資産階級民主と同様に、全ての公民に全員に、集会、結社、言論、出版、罷業の自由を求める

顧准伝略 陳敏之 1988年4月

顧准『從理想主義到經驗主義』光明日報出版社,2013年,pp.197-201(陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。) 私の五番目の兄である顧准は1974年12月3日肺がんという不治の病を患い亡くなった。以来すでに14年が経った。時間が流れ去るとともに、家族を失った人の高ぶった感情も過去のものとなり、より多く理性的に考えるようになった。とはいえ彼の伝略を彼の家族として書くことになれば、少し感情が入ることは

顧准ー上海での青春時代1931-40

 呂崢《非如此不可‘顧准傳》遼寧教育出版社·2014年pp.16-33による  顧准(1915-74)がいかに早熟だったかを示す話は多い。潘序倫が上海に開いた立信会計士事務所で頭角を現した彼は1931年、わずか16歳で立信会計士事務所が開いていた夜学の講師として会計学を講じた。その最初の年、夜学に来ている彼より年上の人たちは、自分たちよりはるかに若い講師に反発した。やむなく潘序倫は1週間で、顧准を講師から降ろしたものの、雑誌『会計季刊』の編集を任せた。この時の苦い経験は、顧

顧准と会計 陳敏之 1984年7月

 これは顧准の『会計原理』が知識出版社から刊行されるにあたって、『読書』という雑誌に陳敏之が寄稿した「顧准と会計」と題した文章の一部である。1984年7期 pp.130-136 著者陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。ここでは、文革開始以降についての記述が注目されるのでその部分を訳出した。注目は、北京に戻る前、強制労働の状況にあって、顧准がなお日々猛烈に学習した様子、1972年に奇跡的に陳敏之と顧准との連絡が回復したこと、1973年末から彼が、かねて

『理想主義から現実主義へ』陳敏之序文(1988年8月)

『顧准文集』民主與建設出版社, 2015年 pp.154-156より 陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。   この本は顧准と私が1973年と1974年の2年間に通信中に行った学術討論をまとめたものである。顧准は私に学術的なメモ(筆記)の形に書くことを求めた。1965年末に顧准が房山監督労働から北京に戻ってから、私と彼の通信は中断していた。1967年11月から私自身も自由を失い、以後数年は互いに生死もわか

顧准 科学と民主 史官文化批判 1973年3月27日

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.114-118 中国になぜ科学と民主は生まれず、なぜ科学と民主が根付かないのか? p.114       一、歴史的な重い負担  科学と民主は、舶来品である。中国の伝統思想は科学と民主を生み出さなかった。もし中国文化の淵源と根拠を少し探索するなら、中国は科学と民主を生み出していないと、断定できる。それだけでなく、現在に至るまで、中国の伝統思想はなお中国人の身体にとり歴史の重い負担となっている。現在人々は歴史

顧准 科学と民主 哲学上の多元主義 1973年春

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社·2013年pp.109-113. ここで顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は、科学技術と民主主義との関係について、科学精神がすべてのベースになることを主張、また科学精神の別の表現が、哲学上の多元主義だと述べ,それをさらに政治上に及ぼすことを主張している。(写真は占春園で見かけたヒメジョオン。2020年6月6日)  顧准 レーニンの誤り 1973/04 p.109  科学と民主  一、科学精神の上に立脚した民主だけがしっかり頼

顧准 直接民主は行えない 直接民主と議会清談館(上) 1973/04/20

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.119-125抄訳。 p.119 一、直接民主の理想は『フランスの内戦』に由来する  ある人が民主を求め、また「議会清談館」「国家消滅(消亡)」などの大騒ぎの中に居れば、当然直接民主に向かわざるを得ない。彼はこの種の民主制は、下層(基層)から始め、公社形式をとり、人民をまさに主人とするべきだと考える。たとえ代表を派遣するとしても(それは代議士ではない、英文の上では代表も代議士もみなRepresentativeでは

顧准 直接民主と議会清談館(下)―カウツキーは正しかった 1973/04/20

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.128-131 写真は《顧准会計文集》立信会計出版社2010年表紙より転載。 p.128 九、”少数派を保護せよ”は両党制のスローガン  1957年前後、我々この一党制の国家でも「少数派を保護せよ」のスローガンが鳴り響いた。実際は、これは英国のミル(穆勒)が話したことであり、有名な(地道的)両党制のスローガンである。 p.129 少数派が保護されるべきであるのは、その政治綱領は今日は通過しないが、今日

顧准 帝国主義の変化 帝国主義と資本主義(上) 1973年5月8日

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.98-103 顧准《顧准文集》民主與建設出版社2015年pp.252-257  顧准がまだ文化大革命の余韻が残る1973年に北京で書き残したメッセージである。書斎人に過ぎない顧准が、「社会主義国」中国で、以下のような「世界認識」をもっていたことは、注目されてよいのではないか。 p.98.(p.252) 一、米帝国主義は20年の競争(較量)の間に後退(退却)した  この命題は見るところ、確定して疑いがない。朝鮮戦争と

顧准 資本主義も変わった 帝国主義と資本主義(下) 1973年5月8日

 顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.103-107を翻訳したもの。手元にある《顧准文集》民主建設出版社2015年pp.257-261も参照している。  日本では、中国の経済学者、顧准(グウ・ジュン 1915-1974)はほとんど知られていない。しかし、かれの到達した知的水準がかなり高いことが、以下の翻訳からもうかがえるだろう。学問的に不毛であった文化大革命が終わる時期、ただ一人病躯に鞭打って北京図書館に通い詰め、資本主義や民主主義の本質を理解しようとし