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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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#陳独秀

蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31 esp.11-14, 26-27 教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。 p.11 北京大学の名称は民国元

胡適「陳独秀の最後の論文と手紙」序文

解題                           福光 寛  これは、胡適《陳獨秀最後論文和書信序》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年,pp.161-173の翻訳である。この序文には日付けがあり、1949年4月14日夜 太平洋船上とある。中国がこのときどのような状態にあったか、胡適(1891-1962)が太平洋上でどのような旅にあったかも重要である。彼は駐米国連大使として赴任するため、上海からサンフランシスコへの航路にあった。すでに共産党との内戦で国民党の敗

Chen Duxiu 陳独秀 1879-1942

陳独秀 Britannica Summary  1879年10月8日安徽省懐寧で生まれる。1942年5月27日重慶近くの江津で亡くなる。中国の政治的知的指導者、中国共産党の創設者。若い時、陳は日本で学んだ。中国で陳は反逆的subversiveだった。雑誌を始めたが、すぐに政府により弾圧された。中華民国の設立のあと、彼は月刊誌『青年雑誌』を始めた(その後『新青年』と改名された)、この雑誌において彼は、中国の若者たちに国民(the nation)を知的にまた文化的に再度若返らせ

スターリン、トロッキーの中国認識(1927-29)

 以下は曹泳鑫《馬克思主義中國化:基本認識和實綫》學林出版社2015年pp.57-61の一部を訳出したものであり、スターリンやトロッキー、陳独秀にもどって、曹泳鑫の記述の正確さを細かくたしかめてはいない。  ここでは1927年の蒋介石による反革命以降、トロッキーが中国革命について述べたことについての理解の一助として、そして、この時期のトロッキー派ー陳独秀が党内右派あるいは取消派と呼ばれていることを理解するための、一つの参考資料としてこれを訳出しておくことにする。 なお

トロッキーと陳独秀ー独裁批判での共鳴

トロッキーと陳独秀-独裁批判での共鳴                                 福光 寛  トロッキ―の「永続革命論」2008年3月現代思潮新社;「中国革命論」同左を読んだ。いずれも現代思潮社からかつて出されたものの復刻出版。前者は1969年、後者は1961年の出版。後者は「10月の教訓」という本と併せて1冊になっている。陳独秀とトロッキーの間で交流があったことは、陳独秀の側にトロッキー宛書簡がでてくることから伺えたが、こちらの「中国革命論」に

Leon Trotsky 1879-1940  中国革命論 1927-1938

Cited from BBC Historic Figures  Trotskyはロシアにおけるボリシェビキの権力掌握において鍵になった人物。ソビエトの共産主義者の体制(rule)の初期段階において、ただVladimir Leninに次いで第二位にあった。しかしレーニン死後の権力闘争でJoseph Stalinに敗れ、亡命中に暗殺された。  TrotskyはLev Davidovich Bronstein(本名)として、1879年11月7日に当時ロシアの一部だったYanov

中共中央の武装暴動方針と陳独秀の経済闘争主義 1927年

以下は任建樹『陳独秀與近代中國』上海人民出版社·2016年pp.160-161の翻訳 p.160 1929年11月15日、中国共産党の創設者のひとりで、五届中央書記を務めさえした陳独秀は、党籍を除かれ離党させられた。この以前、彼と中共中央は中国革命問題について広範でまた激烈な争論を行った。この論文(本文)はこの論争の主要問題そして陳独秀と中央の主要な分岐について整理(梳理)しようというもの。併せて若干の意見をのべたい。 1927年末の3通の書簡  大革命失敗後、中共中央

中共六大(1928)時の路線対立

 中国共産党の第六回大会はモスクワ郊外で1928年6月18日から7月11日までモスクワ郊外で開催された。出席142名。そもそも党大会を中国国内で開催できなかったことは、蒋介石による弾圧により中国国内で公開活動ができない状態に陥っていたためであり、逆にモスクワで開催できたのは、当時の中国共産党が、国際共産(コミンテルン)によってほぼ丸抱えの支援を受けていることを示していた。以下、記述は下記資料による。  李蓉 葉青如編著『在莫斯科舉行的中共六大』中共黨史出版社2017年。  周

中東鉄道と国共合作とをめぐる中共中央と陳独秀の対立 1929年7-8月

任建樹《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016年pp.161-165 p.161 中東鉄道(中東路)はもともとツアー下のロシアによる対中国(對華)不平等条約の産物である。10月革命後ソビエトロシアは対中国のすべてp.162 の不平等条約の廃棄(廃除)を宣言した。しかし1924年中露署名協定では、中東鉄道は両国共管とされた。大革命失敗後、両国の関係は日増しに悪化。1929年7月10日国民党政府は東北地方当局に中東鉄道の武力による接収管理を指示。その後、北平(北京)、天津

陳独秀と不断革命論 1930-42

 林致良他編《陳独秀晩年著作選》天地2012年を使って、陳独秀(チェン・ドウシウ 1879-1942)の民主主義に対する考え方の変化を確認したい。仮説として考えられるのは、トロッキー(Leon Trotsky 1879-1940)の「不断革命論(日本語は永続革命論あるいは永久革命論 permanent revolution)」の影響、そしてその変化である。その場合、当初は、民主主義の徹底はあくまで社会主義を実現するための戦略であって、その先に連続して社会主義革命を目指すとい

陳独秀 民主主義の正しい評価 1940/07

《陳獨秀 給連根的信(1940年7月31日》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.181-183 陳独秀という人の最晩年、民主主義がまず重要であることを主張して、当時のスターリン、ヒットラー、ムッソリーニの独裁体制を批判。また民主主義のない社会主義には、何の意味もないと喝破。レーニン=スターリンが掲げた無産階級民主主義は、党の独裁にほかならない点で、民主主義の内容がなく、空虚だと徹底的に批判している。こうした陳独秀の議論は、近年、陳独秀の議論が再検討される中

陳独秀 民主主義は人類の発明 1940/09

《陳獨秀 給西流的信 1940年9月》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.185-192,esp.189-190 (写真はツツジ。肥後細川庭園にて2020年5月31日) p.185 西流兄身辺の方へ:数日前に一筆差し上げ、それに付随して超麟兄から手紙が寄せられたが、すでに見られたであろうか。七月二十一日の手紙は守一兄の手紙がすでに読まれたことを示している。病気のために兄からの手紙にすぐに返事はできないが、同様のことである(今猶如此)。(この手紙は書き続け

任建樹「陳独秀の最後の見解」2008年1月

解題                             福光 寛  以下は任建樹《陳獨秀的最後見解》載《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016pp.184-188の翻訳である。なおこの任の記事は《社会科学報》2008年1月17日からの採録である。任建樹(1924-2019)は陳獨秀著作選の編集にあたった人物として知られる。以下の文章は任が83歳のときのもの。2019年11月に任は亡くなった。任が陳独秀の研究を長年続けたことの意義については、南京財経大学の石鐘揚が、毎日

陳独秀 反対党の自由と議会 1940/11

《陳獨秀 我的根本意見(1940年11月28日)》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.193-198,esp.194-195(写真は肥後細川庭園) p.194 (八)民主主義はおのずと人類が生み出した政治組織であり、政治が消滅するまでも、各時代(ギリシア、ローマ、近代から将来の)多数の階級人民は少数特権の旗幟に反抗した。”無産階級民主”これは空っぽの名詞ではない、その具体内容は資産階級民主と同様に、全ての公民に全員に、集会、結社、言論、出版、罷業の自由を求める