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交通銀行の歴史 1907-1987

 區慕彰     羅文華《中國銀行業發展史  由晚清只當下》香港城市大學出版社2011年pp.52-56

p.52  交通銀行、名称から分かるように(顧名思義)交通と関係がある。確かに交通銀行設立は、中国の早世期の鉄道建設を大いに源とする。
 ほとんどすべての現代化に関係することは中国に入ったときはそうであるのだが、中国人は理解できないもの(異類)と見なしたが、鉄道もその例外ではない。現在、中国に次第に高速鉄道が使用され始めているが、清朝末期において、鉄道は一度ならず「怪物」とみなされ、人々の拒絶にあった。しかし「中国の学問を価値を学ぶために、西洋の学問を方法をまなぶために(中學為躰,西學為用)」という洋務官僚の固い姿勢の下、中国はゆっくりと鉄道の建設を学び始めた。
 1874年に李鴻章は海上防衛の提案を同治皇帝に奏上するにあたり、中国の沿海地区区域が長すぎると考えて、もし(この長大な区域を)連合一体とするには、西欧の電線通報を学習するしかないと考えた。またもし内地を連合させるなら、汽車鉄道を保有して走らせ、兵をそのそばに駐屯させて、警報を受けて一日千里を駆けつける、かようにして防御を大いにかためるしかないと考えた。李鴻章はなお提起した、鉄道の建設だけでも、郵政電信を発展し、鉱産物の掘削採掘が進み、富国の効果があると。
 1878年、英国人金達(Claude W.Kinder)は中国で初めて鉄道ー唐胥鉄道の設計をした。この後、ロシア国人が中国で中国東省鉄道を建設した。続けて清政府はまた外国と合資あるいは借款方式で、続々と多数の鉄道を建設した。当時、清政府は前後に4.59億元国幣の借金をして、それを鉄道建設に用い、結果として利権を大量に喪失した。イギリス、ドイツ、フランス、ベルギーなどの列強は、鉄道借款を通じて中国の鉄道を統制し、多額の元本利息を獲得したほかに、鉄道の運行管理権、検査権(稽核權)、人事権、購入権(購料權)などを享有した。
p.53 初期の鉄道建設では項目は少なかった。正式の管理機構もなかった。主要は海軍の役所(衙門)が管理を代行した。1897年になって鉄道総会社(鐵路總公司)が設立された。1898年にはまた鉱物鉄路総局が設立された。1903年に清政府は鉱物鉄路総局を廃止し、あらゆる鉄路鉱物事務を新たに設立した商部に扱わせた。1906年に清政府は別に郵傳部を設け、輪船、鉄道、電話及び電報、郵政など四政を専管させた。光緒三十三年(1907年)郵傳部は交通銀行の設置を上奏要求し、朝廷の准奏(君主が臣下の奏上を批准すること 訳注)を獲得した。
 実際には当時、商部,農工商部はともにかつて銀行の設立を要求したが、ともに清政府により否定されていた。清政府は交通銀行設立を批准した。それはおそらく郵傳部の規模と財源が(大部分鉄道に由来して)比較大きいことによる。当時、郵傳部の毎年の財政収入はなんと(竟然)会計部門(戶部)の5倍。加えて郵傳部は先進的な金融思想の人材を集めていた。彼らは鉄道の整備と銀行の建設のいずれにも強い興味をもち、のちにこれらの人々が交通系に次第に広がった。彼らの言行は交通銀行の設立にも重要な影響を与えていた。
 郵傳部が銀行の設立を願い出ていたのは、外国銀行が中国の金融の命脈を統制している点にも関係があった。現代の西欧のある経済作家は簡潔に重要なことを(一針見血地)述べている。「もし私が第三世界国家の大統領であれば、・・・・私にとっては、この形が整って美しい(衣冠楚楚)、国際貨幣基金と花旗銀行貸付の紳士方の恐怖(畏懼)は、伸びきったひげを生やしたままで話の長い(嘴裏嘮叨)革命ゲリラよりずっと大きい。」この話は道理があり、経済金融人の侵入は国家にとりかなり重大な結果をまねくが、清朝末期の中国もおなじだった。当時の鉄道、郵政電信の借款はすべて外国の銀行の蓄え(存儲)によるものだった。その蓄えは他人が支配(操縦)するものだった。かつもし中国への為替が必要であれば、そのすべてを自身で指図できず、英国滙豐銀行(Honkong & Shanghai Banking Corporation)、華俄道勝銀行(Russo-Asitic Bank)、華比銀行など外国銀行の処理を通す必要があった。これは日常収支が膨大な郵傳部からすれば損失(吃虧)が大きいうえに、大変不便だった。たまたま、京漢鉄道の買戻し問題はこの種の必要を現実に転じた。
    京漢鉄道又の名を盧漢鉄道は、清政府が自ら建築した最初の鉄道であった。清政府の国庫がカラで、財力が足らず、各省の富裕な中国人商人(華商)もまた清政府を信用せず、投資を望まなかったので、最後に盛宣懷が登場して集めざるを得なかった、ベルギー(比利時)の会社に450万英ポンド(年利5% 期限30年)の借り入れ(借款)を行った。ベルギー(の会社)は鉄道の運営を行い(承辦)、
p.54   併せて免税特権を受け、30年の借り入れ期間中、すべての運行管理権もまたベルギーの会社のものだった。のちに清政府は同様の条件で、ベルギーから1250万フランを借りた。
 借入成立後、中国政府は一貫して京漢鉄道のすべての自主権の取得を得ようと力を尽くした。京漢鉄道を買い戻すカギは資金問題だった。郵傳部は何度も会議を開いて、資金を集める必要を認識した。二つの方法を巡って。中国で集めるなら、株券(股票)を売るか内債を募集するか。他国で借り入れるか、あるいは契約を改定するか。明らかに最後の一つは無理である。郵船部(ママ 郵傳部の誤植か?)が自身の必要と京漢鉄道の名義買戻しを根拠に、ついに交通銀行の資金が集められることになった。光緒三十三年(1907年)郵傳部は交通銀行の募集設立をはじめ、1908年に正式に北京に本店を開行、創業時は官商合弁の性質であるが、すべての経営は各国の普通商業銀行法にならうものであった。
 交通銀行は郵傳部が批准を願いでたもので、海運(航運)、鉄道(鉄路)、電話及び電報、郵政の四つの政治業務を設立の目的(宗旨)にうたった、それゆえ設立初期はすべての活動は、この四つの政治業務をめぐって進み、とくに京漢鉄道の買戻しと、電話電報の買戻しの2件が主要であった。京漢鉄道管理権回収の過程で、郵傳部の議論は資金集めに及ぶが、これもまた主要業務であった(訳注 京漢鉄道の着工は1898年末。全線開通は1906年4月。なお管理権の買戻しは買戻しを求める民意の強い要求が背景。英仏への新たな借金で1909年1月に実現。)。京漢鉄道管理権買戻しのあと、交通銀行は電報事業の中の商股を回収し、電報を完全に官営(官辦)とした。
 政府の銀行として交通銀行は交通を名乗っていたが、業務上は官への貸付は限られており、私人貸付が中心だった。1912年初め、商家の未返済(欠款)は公家の2.9倍だった。公家貸付は主要には鉄道貸付に集中しており、その中には比較的大きな項目があった。峰興媒礦公司北段路局借款60萬両。福建鐵路公司借款50萬元。江蘇鐵路公司借款80萬元。このほか政府の銀行として交通銀行は政府に対して関係する事業が進むと貸付を行ったが、貸付としてみるとこれらの事業と、鉄道、輪船、電話及び郵政はほとんど大きな関係はなかった。交通銀行はそのはじめ、所轄の四つの政務のうち、鉄道をのぞくと、輪船、電話、郵政の三つの政務には歴史原因もあって、交通業務との連携は緊密でなかった。
p.55 交通銀行の初代の総経理は李鴻章の甥(侄:男兄弟の息子)李經楚だった。理財にたけており当時二十あまりの大銭庄(銀號)と質屋(典當)を保有しており、交通銀行成立後の主要任務は、京漢鉄道の買戻しであった。李經楚は就任後、株券と公債を発行、資金を集めて買い戻しを達成した。惜しいことに家族ビジネスの失敗により、交通銀行の貸付を返済後、退職した。二番目のボスは梁士詒。かれは交通銀行の要員として採用され、新旧政府が交代すると、当時の政府発行公債のため袁世凱に重用され、郵傳部の預金を処理した。
 交通銀行は設立されてのち、発展は迅速であった。1908年に北京に本店を開いてから1911年までに、すでに国内に23の分行を開設。清政府が滅んだあと、交通銀行の勢いはなお盛んであった。1925年までに交通銀行は中国銀行と並ぶ二大銀行で、両行併せて上海銀行公会22会員銀行資産の55%を占め、そのうち交通銀行の持ち分は14.3%であった。交通銀行はこの時名義上は政府銀行であった。しかし政治を担う北洋政府勢力は衰えており、業務はすでに上海の私人金融家の統制下にあり、政府はただ象徴的に株式を占有しているにすぎなかった。
    南京国民政府が成立後、蒋介石が政権につき、宋子文は財務部長に就任し、交通銀行の梁士詒と会談して、中国銀行そして交通銀行の国家銀行の職責を想定(試圖)を話し合った。しかしこのような政府股が商股を上回るべきことは両行の銀行家はみな望まなかった。国民政府は最後は別に中央銀行を設けて、交通銀行が自身の業務を保持できるようにした。しかし新任の宋部長との配慮気配りから、両行は等しく譲歩、政府と協力(合作)した。1928年国民政府は交通銀行を改組し、「全国実業の銀行に発展させ」、交通銀行の経済実力は引き続き壮大になった。しかし1932年国民政府は再度交通銀行を改組。交通銀行の政府接収管理を宣言しただけでなく、政府の増資により半数以上の株を抑えるとした。この時の改組の後は、交通銀行は国民政府の統制され、国家独占(壟断)資本主義の金融機構となり、中央銀行、中国銀行とともに、三位一体の国家銀行となった。
 1949年に国民党が台湾に退いたときに、交通銀行の一部の人員もそれに従い台湾に移ったが、大陸の交通銀行各部は、人民政府により国有とされたがp.56  「交通銀行」の名を保持した。50年代政府はあらゆる金融機構に対して公有化改造を進めた。1958年香港の分行が継続営業したほかは、交通銀行の国内業務はそれぞれ当地の中国人民銀行に併入された。そして交通銀行の基礎上に中国人民建設銀行が組織された。1986年7月24日、中国経済体制の改革と発展に適応するため、金融改革の先行試験(試點)として、国務院は交通銀行の再建を批准した。1987年4月1日、再建された交通銀行は正式に対外営業を開始し、中国で最初の全国的国有株式(股份)制商業銀行となった。

中国銀行の歴史 1905-1949
東清(中東)鉄道の建設 1897-1903
新中国建国以前中国金融史

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