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ソーベル「ニューヨーク証券市場史」1965

原著はRobert Sobel, The Big Board-A History of the New York Stock Exchange, 1965. 翻訳は安川七郎訳「ウオール街二百年」東洋経済新報社1971年。全16章。以下は最初の4章からメモ。(写真は文京シビックセンター。地上28階地下3階。1999年11月竣工。設計:日建設計 施工:清水建設ほか)

bullとbearの由来。雄牛は物を角で上にはね上げるし、一方熊は力いっぱい下に押し付けるところから。訳p.15

ウオール街の由来。1653年にピーター・スタイブサント知事によって立てらえた幅1340フィートに及ぶ塀に由来。柵に代えて12フィートの高さの塀をつくった。街の豚や山羊が今日の下町イーストサイドとなっている「所有者のない土地」のほうへ迷い込んでしまうのを防ぐためにつくられたもの。訳pp.18-19

1790年に首都はフィラデルフィアに移動(合衆国議会がどこにあったかでアメリカ合衆国の首都は移動した。1800年から現在まではワシントン。フィラデルフィアの前はニューヨークに1785-1790まで) このフィラデルフィアには1781年創設のノースアメリカ銀行 3年後には政府へ資金を融通する見返りとして特許授与。1791年フィラデルフィアに本店おく合衆国銀行設立。訳p.22(ウオール街よりフィラデルフィアのチェスナット街が証券取引の中心に)

1792年5月 コールホテルで協定 当時はすずかけの木の近くで立会 最低手数料率(正貨で4分の1%以上)。ほとんどのブローカーは、証券業務以上に問屋業、保険業、銀行業などに力 訳p.26

当時の株式会社 額面の何割引きから発行 残額払い込み責任が大きくリスク高い。連邦全土にわたり会社法に有限責任が取り入れられるのは1850年になってから。訳p,29

(19世紀初頭)ウオール街での商いは増加したけれども、取引会所は比較的平静であった。というのは当時は街頭での取引の方が取引会所取引より多かったからである。・・(新規証券も)まず引受業者の事業所で売出が行われるが、その後、そこで取引が引き続き行われる場合が多く、取引会所が利用される場合は少なかった。訳p.47

1837年の恐慌 ウオール街1938年から42年にかけ衰退。フィラデルフィアのブローカーも急速に衰える。1840年代はじめにはニューヨークの価格が基準に。1832年 モールスが実用電信機開発。1844年にはニューヨーク、フィラデルフィア間の電信を扱うマグネティック電信会社設立 ウオール街の株価が同じ日にチェスナット街でも相場として掲げられるように。50年代の終わりころにはウオール街は電信によってアメリカ中の中心都市と結びつけられ、それら全部の都市に基準となる値段を提供していた。訳pp.71-72

1857年にはブローカーの多くが、株式や債券の商売を専門にやるようになっていた。そのため1837年には証券価格が50%下落しても生き延びることができたが、1857年には20%の値下がりでも破産に追い込まれてしまった。専業化があだになって、古くからいるブローカーの多くが破産して、もはや二度とウオール街へはもどってこなかった。訳p.85

#ウオール街 #NYSE   #金融史 #文京シビックセンター

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