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小石川植物園

 貞享元年1684年江戸幕府は小石川御殿内に小石川御薬園を置いた。小石川御薬園内にはさらに享保2年1722年小石川養生所が置かれた。その後、明治時代に入り、明治10年1877年旧小石川御薬園は東京大学付属の植物園とされて現在に至っている。
 園内西端には旧東京医学校本館がある。この建物はもともとは本郷の赤門近くにあったもので、重要文化財(昭和44年1969年に当地に移設された。明治44年に赤門脇に移設するときに、元の形を縮小している。明治9年1876年に完成した元の建物は、時計台を有して長く東京大学を代表する建物だったとのこと。現在の建物からも、東京大学創設時の雰囲気は伝わる)。日本庭園に面した姿は一見の価値がある。

旧東京医学校本館(1)
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旧東京医学校本館(2)
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旧東京医学校本館(3)


 都内にはめずらしく鬱蒼とした緑がある。園内に大木が多く残っていることは、ここが関東大震災や第二次大戦の戦火を免れたことを伺わせる。入口近くにある「本館」は内田祥三(よしかず)設計による昭和14年1939年竣工の建物。内田は安田講堂の設計でも知られるが、東京大学の建築学科を率い、東大総長をも務めた人物。「本館」は中央部に塔があることが斬新だが、直線が多いためか固い印象が残る。旧東京医学校本館と並んで、この植物園を代表する建物である。
 アクセス 地下鉄白山駅を出たら白山通りを渡り蓮華寺坂を登り御殿坂を下って徒歩15分。地下鉄茗荷谷駅からは春日通を後楽園方面に進み播磨坂を下り右手。千川通を渡り大雲寺の脇道を抜ける。徒歩20分。いずれも少し歩く。月曜休園。

メタセコイア(1)
メタセコイア
ヤマツバキ
ヤマツバキと神社
梅林
日本庭園

 高浜虚子(1874-1959)は長年、小石川植物園で俳句を詠み続けた。ここでは日付け順にならべて一覧する。『虚子五句集(上)』岩波文庫1996年刊より引用。
   1月15日(昭和12年1937年)  画家去りぬ嫣然(えんぜん)として梅の花   
   2月4日 (昭和13年1938年) 旗のごとなびく冬日をふと見たり 
   3月29日(昭和14年1939年) 初蝶を夢の如く見失ふ  
   4月25日(昭和18年1943年) 尾は蛇の如く動きて春の猫
   6月13日(昭和10年1935年) 緑陰を出れば明るし芥子(けし)は実に
   6月15日(昭和9年1934年) 一々の芥子に嚢(ふくろ)や雲の峰  
   9月4日 (昭和17年1942年) 秋灯の下に額を集めけり
 11月7日 (昭和16年1941年) 大木の見上ぐるたびに洛陽かな
 11月30日(昭和13年1938年) 大枯木己が落葉を慕ひ立つ
 12月28日(昭和17年1942年) 挽かれゐると知らでつつ枯木かな

 この植物園は日本の近代植物学発祥の地とされる。その一つの意味は、まさにこの場所が、平瀬作五郎(明治29年1896年 イチョウの精子発見)につながっているという意味もあろう。しかし日本には日本独自の植物学の発達や自然とのかかわりあいの歴史があったことも知られている。ここで日本独自の植物学といったのは、中国から伝わった本草学をさらに深めたもので、そのことがここが小石川御薬園であったことの意義と重なる。また、江戸時代の園芸の発達にみられるように、日本には身近な植物を愛でる文化が発達していたといえる。西欧の植物学、さらに本草学に加え、そうした日本文化歴史の延長上に、明治以降の日本の植物学の発達があるともいえる。園内を散策しつつ、日本の植物学の歴史を少し考えるのも楽しい。
     近代植物学というと、まず植物分類学の父とされるリンネ(Carl von Linne 1707-1767)のことが思い出される。このリンネの分類や命名は、今日の植物分類や命名にも生きている。

   そしてこのリンネの弟子であるCarl Peter Thunberg 1743-1828は日本に1年半長期滞在して、長崎と江戸とを往復して、帰国後「日本植物誌Flora Japonica」(1784)を著し、日本の植物を世界に紹介したことが知られる。
大場秀章 黎明期の日本植物研究

 またダーウィン(Charles Robert Darwin 1809-1882)が「種の起原」を出版したのは1859年のこと(小池真理子 ダーウィンの生物学 学術の動向2010/03)。ダーウインの自然選択論は、ラマルク(1744-1829)の進化論の延長上にあるもので、生物の進化のメカニズムを論じている(自然環境に適応したものが、生き残るという議論であって、優れたものが生き残ると理解するのは誤読だとしばしば強調される)。司祭だったメンデル(Gregor Johan Mendel 1822-1884)が実験を重ねて「メンデルの法則」の内容をまとめた論文を発表したのは1866年のこと。しかし内容(遺伝子という考え方)が革新的であったため、その意義が、学会で認められるのは死後の1900年のことだとされる。

 このようなダーウインやメンデルの登場年代を考えると、小石川植物園が開かれた1877年という年は、日本に近代植物学が入って来た年ともいえるが同時に、その近代植物学自体が、激しく揺れ動いていた時であることが分かる。そしてそのような揺籃の時代に、日本の文化歴史に加えて、この植物園での研究もベースになり、平瀬作五郎の「イチョウの精子発見」、さらには池野成一郎の「ソテツの精子発見」という画期的成果が草創期の日本の植物学から生み出されたのだと考えられる。精子発見とその意義 加藤雅啓
    本草学から植物学に進んだことが明確な人物に、牧野富太郎(1862-1957)がいる。彼は高知の出身。実家は酒屋。学歴は小学校中退である。気儘に暮らしていたが本草学によって植物学に目覚め、志を立てて上京し、東大の植物学教室で時に教わった。しかし正式の学歴がないがゆえに、またその奇抜な行動から、教室内での対立や冷遇もあったようだ。しかし最後には、植物学の権威として、大学からも認められるようになった(とはいえ彼の足跡は今のところ、この植物園内に掲げられていない)。
 園内に分類標本園がある。これはエングラー(Heinrich Gustav Adolf Engler 1844-1930)の分類体系によるものとされる。
 エングラーの体系は、先行研究者の成果を活かし、植物を形態情報をもとに、進化論の考え方で単純なものから複雑なもの(進化したもの)に配列している。このエングラーの議論も、まさに19世紀後半の最先端の議論であった。その後、エングラーの体系を基礎にしつつ、こうした形態的進化説を否定するストロビロイド説を取り込んだ新エングラー体系が1960年代に登場。1990年代にはさらに分子系統分析(生物がもつタンパク質のアミノ酸配列や遺伝子の塩基配列を分析することで、生物の進化系統を明らかにしようとするもの)をもとにしたAPG体系が登場し、今ではAPG体系が古典化している。APG分類体系について 倉田薫子

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