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董輔礽(1952-57年ソ連留学):人生軌跡及其轉向 張曙光

董輔礽:《有偽學者的人生軌跡及其轉向》載《中國經濟學風雲史》八方文化創作室,2018,p.1046-1094, esp.1046-1048(董輔礽(トン・フーレン 1927-2004)は最初、武漢大学で西欧の経済学に基礎を学び、それから20代半ばでソ連に留学した。ソ連留学時に孫冶方の知己を得て、帰国後、間もなく経済研究所に招かれている。国民党支配地区で正規の教育を受けたためにまず大学で西欧の経済学の基礎を学び、そしてその後、新中国建国後の大学人として、ソ連の経済学のメッカに留学した。ソ連と中国はその後、仲たがいするのでこうした経験をする人は、その後続かなかった。歴史のはざまである意味で奇跡のような経験と経歴に思える。中国人の学者は長生きなので、そのなかで比較的早い77歳での早世は惜しまれる。訳注)

p.1046 董輔礽教授は中国で大きな影響力のある経済学者で、かつて中国社会科学院経済研究所副所長、所長、名誉所長、第七。八両届全国人大常委会財経委員会副主任、第九届全国政協経済委員会副主任を務めた。理論上重要な貢献を行い、経済実践中、また大量の工作を行った。彼は本物の(真正的)学者であり、また明らかに個性的学者であり、官職について以後も、代筆を頼むことはなく、みずから苦労し思考して執筆した。世界においても彼は有名で影響力があり、改革開放前に彼の著作はフランスと日本で訳されて発表されていた。改革解放後、重要な国際大会にまずは(姑且)出席し、彼はフランス政府から二級教育勲章を授与された。英国ケンブリッジ大学マーシャル講座は1991年の講座のゲストとして彼を招聘した。もし「六四」の変がなければ彼は中国でその講座で講演した最初の人になるところだった。ノーベル経済学賞選考委員会と、スウェーデン王室アカデミーは毎年彼のもとに書簡をよせ、彼にノーベル経済学賞の候補者の推薦を依頼した。かれが推薦したアガロフは2年目に受賞した。
 董輔礽の一生は決して順風満帆ではなかった。1964年の経済研究所「四清」と文革中に受けた攻撃を別にしても、改革解放後も何度も圧力や攻撃を受けた。しかしかれは意思を固くして怠けることなく(堅定不懈)努力を継続した。経済学の内容(功底)を論じる点で、学術の素養と理論思弁能力において、董輔礽は同時代人のなかでおそらくかなり抜きんでていた。彼は理論研究上大きな貢献をし、大きな業績を生み出したが、しかし主客観の原因が彼の機会を失わせた。これは惜しむべきことである。
 (中略)
p.1047 董輔礽(1927-2004)
   1927年7月26日、董輔礽は浙江省寧波市江北區新馬路の母方のお母さんの家で生まれた。父の董浚敏は英文秘書、中学教師、郵便局で働く、など経て”三興輪船公司”武漢子会社(分公司)の代表(經理)であった。母の趙玦影は寧波城内のお金持ちの家のお嬢さんで、結婚前には就学して学び、結婚後は家にあって夫を助け子を教えた(相夫教子)。董輔礽はこのような新たな系統の(新派)のまた伝統のなかで成長した。その自由でまた仲睦まじい書物を愛する家庭のあった(和睦的書香門第之中)。知らず知らずの感化を受けて(通過潛移默化)聞くもの見るものから(耳聞目染)、彼の努めて学び良く考え(勤學好思)、知識を愛する性格が作られ、のちの学術上発展する基礎が固められた。
   董輔礽は5歳で幼稚園に行き、6歳で進学して学んだ。1937年に(対日 訳注)抵抗戦争(抗戦)が勃発すると、国民政府は重慶に遷都し、(日本軍に 訳注)占領された区の人々も後方に移った。彼もまた父親の輪船公司に従い長江の水道上を千里上下に動いた(顛簸)、最後は重慶で安下家來,重慶永川県国立第16中学で学んだ。抗戦勝利後、董輔礽一家は再び武漢に移り、1946年夏、武漢大学法学院経済系に合格した。現代西欧経済学の基礎知識と方法訓練を学習した。また「求真読書会」を通して《資本論》の一部を読み、マルクス主義に接した。彼は1947年5月22日の示威デモ(このとき先行して5月20日に南京で内戦停止などを求める大規模な学生デモが発生 続く5月22日には武漢大学学生を中心とするデモ隊が武漢の省政府を襲撃し建物内部を荒らした。訳注)に参加,珞珈山の”六一惨案”(5月22日事件に衝撃を受けた省政府は6月1日武漢大学を武装部隊で包囲。武力で弾圧に及んだ。結果として学生側に3人の死者20名以上の重軽傷者がでた。この1947年の事件は武漢での六一惨案とよばれるが、学生が国民党から離反していたことと、国民党の対応がますます学生の反発を招いたことををよく示している。訳注)を目撃した。p.1048 共産党の学校周辺組織”武漢大学学生工作組”に加入し、のちにまた”新民主主義青年社”に加入した。1949年5月9日に中国共産党に加入した。引っ越し(搬遷)に反対し、破壊に反対し、解放を歓迎するため大量の工作をおこなった。1950年に 董輔礽は武漢大学学生自治会主席に選出され、併せて学生代表の身分で、武漢大学校務委員会委員となった。
 1952年  董輔礽は2年の助教の後、モスクワ経済学院に公費留学した(被保送到)。先生はソ連の当時の有名な教授プレハノフ(ソ連の専門家として中国人民大学に赴任して教える。その訪中期間、トリエッキが代理指導教授となった 本文注)とトリエッキであり、比較的良好な専業訓練を受けた。彼は真剣に学んで、2年の理論学習のあと、「ソ連と中国の国民収入」と題した「ソ連と中国国民政府の国民収入」と題した20万字余りの学位論文を提出、副博士学位(修士号であろうか。訳注)を取得した。1957年帰国して母校に戻り、論文の前半部分を整理翻訳したものを、《ソ連国民収入動態分析》の書名で湖北人民出版社から1959年に出版。これは董輔礽の並外れた才能(才気)と能力をよく示している。
 1959年孫冶方はソ連の統計専門家スオパーリに訪中講義を要請し、ソ連で彼の通訳を務めたことのある董輔礽を思い出し、董輔礽を北京に借りて通訳および翻訳の支援を求めた。孫冶方はただ(董輔礽の 訳注)才能を愛して(愛才惜才)その後、武漢大学と協議して、毎年母校で講義することを条件に董を経済研究所に招いた。1960年代前半、経済研究所のゆるやかな条件のもと、董輔礽は水を得た魚のように(如魚得水)才能を開花させた(才華湧現)。彼は孫冶方の《社会主義経済論》執筆に参加し、マルクスの再生産表式の具体化につらなる文章を発表し(發表了馬克思再生產公式具體化的系列文章)、”中国経済成長論”の代表の栄誉を受けた。
    経済研究所の”四清”と文化大革命の間、董輔礽は攻撃を受けた。攻撃迫害を受け、のちには人を批判もした(後來也整過人)。改革開放は経済研究所と経済学者に本領発揮の大きな機会と条件を提供し、董輔礽は同時代経済学者で目立つ存在(姣姣者)となった。一面で伝統社会の経済学を批判し、他面で改革転型と経済発展理論とを研究する。彼の思想は解放的で、理論は徹底的で、先鋭に問題を提出分析できた、(そこで 訳注)しばしば正当理論観点の当局者から排斥攻撃を受けた。加えて劉国光との官僚としての競争(官場競爭)に敗れたこともあり、身心を憔悴、不幸なことに早く病没した。臨終間際に残した”大きなことのために身を守る(守身爲大)”は学ぶことで生きた人ならではの名文である(為學做人的名篇)。

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