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胡耀邦 軍人から行政官へ 1945-49

    胡耀邦伝 第1巻 人民出版社2005年 98-172
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015  95-156
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 110-162

   胡耀邦は延安をはなれたあと(1945年11月)、一時、肝炎を発病して、入院治療をよぎなくされた。そのあと1946年7月に職場に復帰している。ポストは、軍隊の中で政治委員というポストである。その後、行政職への移動は後述するように1949年12月。その間の4年間は各地の戦場で軍人とともに転戦したことになる。ここからは想像が入るが、それ以前の中央軍事委員会での6年の経歴ともにこのように長い「軍歴」は、胡耀邦を理解するうえで大事な要素であるように考えられる。ここでは行政職に転じるまでの4年間の戦歴を追う。
 1946年10月 晋察冀チンチャーチ中央局は拡大会議を開き、その後部隊の編制をきめた。引き続き胡耀邦は第四縦隊の政治委員である。このあと第四縦隊は正太、青沦(青淪)、保北の戦役を転戦し勝利している。
 1947年4月の正太の戦いのあと、胡耀邦は第三縦隊の政治委員になっている。第三縦隊には土地改革後の新兵1万余り加わり、胡耀邦は3万の大軍の政治委員となっていた。
 3つの戦役の後、9月に大清河北戦役。除水での保北の戦いと続くなか、石家庄から第三軍軍長の羅歷戒が北上すべく出陣したとの機密報告が寄せられた(10月17日)。第三縦隊は疲労していたものの指令を受けて100キロ以上を一気に移動し、19日早朝、清風店で他の野戦軍とともに第三軍(1万1000余り)を包囲するに至った。猛烈な戦いの末に10月22日早朝、この戦いに勝利している。
 このあと課題になったのが石家庄攻撃(守備軍2万4000人あまり)である。1947年11月6日夜、野戦軍が信号弾を放ち侵攻が開始された。激しい抵抗があり、戦闘が終わったのは12日のことだった。

 1948年春 山西に残る閻錫山の兵力はなお13万余り。しかし6月になると太原に孤立ししかしそこを堅固に守る形になった。これを攻める解放軍の首領は徐向前。このとき胡耀邦は華北野戦軍第一兵団政治部主任であった。9月中央政治局拡大会議が開かれた。毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳などが並ぶ出席者わずか10名の重要会議。そこに当時肋膜炎治療中の徐向前に加え、胡耀邦も出席している。(徐向前が胡耀邦を補佐役として信頼していたことがわかる。また胡耀邦にとっては最高幹部間の議論は参考になったと思われる。)
 10月10日徐向前が前線に復帰(11月下旬に再度倒れている。)。閻錫山の勢力はなお10万。この前後から解放軍は太原周辺の要塞に猛攻を加える。しかし閻錫山の軍隊も激しく抵抗。激烈な戦闘ののち11月12日までに主要な要塞を解放軍は抑えている。
 閻錫山軍の中に黄樵松という軍長は張学良や楊虎城の联共抗日の主張に共鳴、共産党にも理解があった。実はこの人は、蒋介石が10月に送った増援の部隊1万を率いてきた責任者。しかし熟慮の末、閻錫山への造反を決める。しかし部隊から密告者がでて、黄樵松をはじめとする5人は逮捕され、3人が死刑、2人が無期懲役とされ、11月27日死刑は執行されている。
 1949年1月 解放軍は天津を攻めその後 北平を平和裏に開放した。 
3月5日から13日 中共中央は西柏玻で七届二中全会を開き革命の重点の農村から都市への移行、革命戦争から和平建設への移行などが強調された。会議の途中で毛沢東は彭徳懐を太原の指揮をとらせるため西北前線に戻している。
 太原に集結した閻錫山の軍隊は7万2000人あまり。包囲する解放軍は25万あまり。だが3月29日閻錫山は口実を設けてすでに逃亡していた。このとき胡耀邦は太原前線司令部に政治部主任としていた。毛沢東は北平方式での和平をさぐらせたが拒絶に会い、4月20日総攻撃が開始された。

  1949年4月 南京政府が国内和平協定締結を拒絶したことを受けて毛沢東と朱徳は4月21日「全国進軍命令」を発布。4月23日には南京が解放され、翌日には太原が解放された。西安大西北の解放が課題であった。
 5月 西安の占領解放
 6月 咸陽の回復
 7月14日 西北軍事要塞寶鷄の占領

 1949年9月に開催される中国人民政治協商会議第一会議(9月21日から30日)に新民主主義青年団代表10名の一人として参加している。そのため7月29日に寶鷄から北平(北京)に向かっている。北平は1946年以来であった。また胡耀邦は10月1日天安門楼上から開国大典に参加している。

 他方 解放軍の南下とともに逃げ場を失った国民党軍20万あまりが成都一帯に展開するようになる。胡耀邦も指導者のひとりである十八兵団は解放戦争の最後の山となる西南決戦を開始する。重慶を攻め、東西南から成都を目指す。そしてついに12月27日成都が解放される。
 1949年12月 当時四川省は川東、川西、川南、川北の4部分に別れいずれも省クラスとされた。12月中旬 中共中央西南局(鄧小平が第一書記 劉伯承、賀龍が第二、第三書記 これは四川の政権の意味がある)は川西北軍政委員会(賀龍が首班)に対して川北党の臨時工作委員会の組織に同意している。ここで胡耀邦は書記として初めて地方行政を担うことになった(副書記は趙林)。首府は南充市(12月10日)、人口は1700万余りである。
   (胡耀邦は4年間、東北,西北、西南と転戦してきた。地方行政は未経験である。1950年2月18日胡耀邦は成都から少数の十八兵団幹部とともに南充市に向かい、2月20日到着した。ここで彼は行政の責任者として895日を過ごすことになる。)

#胡耀邦      #毛沢東 #鄧小平

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福光 寛 中国経済思想摘記

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胡耀邦 (1915-1989)

「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
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