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鄧子恢 我的自伝1896-1927

(以下は『鄧子恢自述』人民出版社2007年11月の翻訳pp.3-7である   タイトルの頭の番号は便宜的につけたもの   写真は1953年11月龍岩にて 自述p.245より)

p.3  私の自伝

姓名 鄧子恢
1.幼名 鄧紹萁(秘密工作のとき鄭建中,老林,老李などの偽名を使った)
性別 男
出生年月 1896年 旧暦庚申七月九日生
籍 貫 福建龍岩県東肖區龍泉井村人

2.~4. 略
5.革命に参加する前の個人の略歴 1913年本県省立第九中学校入学、1916年卒業、1917年龍岩県から公費により日本に留学、留学生試験に合格後、東京に留学1年余り 肺病に犯されたこと 公費が少なく補助が得られなかったことから1918年学半ばで帰国 当時家庭生活は大変困難で父は貧しい紳士で中国医でその収入で一家を養うことはできなかった。私は地元の小学教員になったがこれもまた給与がとても少なかった。学から商(あきない)に転じ、1918年の末から江西省贛南崇義縣傑垻圩の私の母の兄が営んでいた店の店員となり、1927年まで働くことになった。
 この時期における私の思想変化。1915年に袁世凱と日本が締結した21ケ条に反対し日本の品物に抵抗する運動に参加したことがある。のちに学生の思潮を無理に除名(で抑え込もうとする)学校当局に対し立ち上がった。当時はただ中身のない愛国運動しかなかった。留日の間は、日本人の中国人を軽視する態度を見て、愛国の気持ちが高まった。当時常に見ていたのは康、梁文集であり、すこぶる影響(印象)を受けた。五四運動あと、『新潮』『新青年』などの雑誌を見たし、思想上、重大な変化が生じた。1920年に無政府主義の書籍を読んでまた無政府主義にゆき、間もなく『共産党宣言』を見て共産主義を信仰するようになった。1922年(ママ)には『向導』報を読んで、中国共産党の組織を知り、陳独秀に手紙を書いて送り入党したいとしたが、返信はなかった。
 1921年前半に家に帰り、故郷で小学教員となり、龍岩県の進歩青年を「奇山書社に結集した。その目的は新青年の団結、新思想の伝播にあった。当初書社に参加したものは200人余り、のちに大革命時期国民党の幹部になった。1923年にまた家に戻り、当時の「奇山書社」の基礎上に「岩声」報を出版した。この雑誌(報)は主として、当時の軍閥官僚土豪劣紳の汚職腐敗、人民を圧迫する黒幕を暴露し、かつ社会主義思想を紹介するものであった。この雑誌は厦門で出版され、龍岩、南洋、漳厦,潮汕,広州、贛州、南雄および有岩僑所在地区で販売され、当時影響力はすこぶる大きかった。
 1925年に私はまた家に帰った。当時厦門には国民党組織があり、友人の紹介で私は国民党に入った。龍岩は数十人の党員にまで発展し、党部が成立した。この年(1925年)秋私は崇義(チョンイー)に戻り、またその地の国民党員を増やした。1926年秋、北伐軍は贛南(ガンナン)を占領、崇義を解放し傑垻墟には区党部が成立し、私は常任委員に任ぜられた。これはまさに私の入党前の思想変化の過程と、参加した社会活動の情況だった。
 つまりこの時期の私の思想は愛国主義から社会主義信仰に至るものだったといえる。これは主として五四運動と革命雑誌(書報)の影響であるが、家庭の貧しさや旧社会の様々な圧迫も大きく関係していた。

6.入党の様子(情形)
 私は1926年12月江西(省)崇義県で中国共産党に入党した。候補期はなく、紹介人は崇義県支部書記の陳贊雍(チェン・ツアンヨン)(崇義人)だった。

7. 入党後に参加した党活動の様子
 1.第一次大革命時期
 1926年に入党すると直ちに江西省贛南崇義縣傑垻墟で農民運動に従事した。一面では国民党の公開勧誘を利用して宣伝を行い、他の一面では農民とは個別に懇談した。当時の崇義県長蔡舒(ツアイ・シュー)はとても悪い人間(坏)で、党支部は1927年のメーデーにおいて、群衆の示威デモを仕掛けることを決定し、スローガンを重税(苛捐杂税)に反対するとした。しかし蔡舒はこの情報を知ると、直ちに戒厳令を布告した。我々は元の計画に従い農民に呼びかけ町(城)に入った。当時支部は私を宣伝扇動(鼓動)員に任命してこの大会に参加させた、また陳贊雍同志は示威デモの群衆が県衛門に突撃するのを指導し、蔡舒を逮捕した。このあと、崇義県臨時行政委員会が成立し、私はその委員になった。間もなく蒋介石の「清党(党内粛清)」軍が贛南に侵入。蔡舒は当地の武装勢力と結んで城を攻めて脱獄し(攻城破監)、白色テロを行った。私の店は直ちに没収され、私の指名逮捕が伝令された。私の姪(母の兄の娘)鄧秋源は捕まえられて牢屋に入れられ、のちに殺された。私は前もって仮装して逃げたことで、逮捕を免れた。
 当時、龍岩でも私の指名逮捕が伝令されていたので、私は瑞金に遠回りしてそこの地元の店内に1ケ月滞在後、内7月のうちに龍岩に戻り、同窓生を通して党関係に連絡した。私が一度家の中に戻ると、私の村内の農民がみな私に会いにやってきた。しかし彼らは地主(土豪劣紳)の迫害による苦しみを訴えてきたのではなく、当時の国民党党部による迫害を訴えてきた。1927年2月に我々の党は、国民党県党部が進めた焼神運動を進めるため、我々の鄧家が祭っていた鉄山廟の閻羅天子を焼いてしまった。この件は、広範な農民の反感を引き起こし、4月の龍岩清党の時、反動派はこの機会を利用して農民に県党部を攻撃するように扇動した。たまたま岩平寧監察署の張旭高同志(共産党員)が出歩いていたので、我々の地元の農民は山上まで追いつめて彼を捉えた。私が戻ると彼らは張旭高という人物を大声で罵った。こいつは我々に何も良いことはせず、閻羅天子を焼いてしまった。これは我々鄧家にとって良いことはなにもない。
 私は当時この情況を見て、先にまず張旭高を批判せずにはおけなかった。この青年は幼稚で、することが地に足がついていない、なぜ閻魔王を焼いたのか?閻魔王は我々農民になにも悪いことをしていない、我々農民を害しているのは座っている閻魔王ではなく、また立っている閻魔王でもなく, 杜连茹那些  地主である。彼らは軍閥を代えて支援し(派捐派款)兵役を担い重ねて課税し、高利貸しを行い、我々から銭を搾り取り我々を苦しませている。この立っている閻羅王こそ我々農民の敵(死對頭)である。我々が1年間苦労して稼いだ銭を皆彼らがもっていってしまう。だから農民は一生貧乏で、菩薩を拝んでも状況を変えることはできない、ただ革命により地主(土豪劣紳)を倒すことで、状況を変えることが(翻身)できる。
 ここまで話すと、群衆の気持ちはたちまち変化した。わたしはこの機会をとらえて、今年の収穫はどうだったと尋ねた。人々はとても悪かったと答えたので、わたしは地代を最低1割できれば2割下げることを提案した。人々はみな賛成したが徴収人が受け入れねば終わりだともいった。私は農民協会を組織することを提案した。みんなが心を一つにして、一致してこのようにする。引き下げが受け入れられたら引き下げ、受け入れなければ少なく収める、残りは出さないと決心する。この段になると、群衆は興奮し始めた。というのもこのときは早稲の刈り取りのころで、地代を減らすことは農民の最も切迫したもっとも実際的な利益要求だったからである。この放って置く(等厝   鄧厝は間違い?)から地代引き下げが始まった。この情報が各地に伝わると、各地の人々(群衆)が私を訪ねてきた。かれらのところで演説してほしいと。私の演説の主要内容は、農民の貧苦は搾取を受けているからで、運が悪いからではない、農民は良い生活がをもとめるなら、組織を立ち上げ地代引き下げ金利引き下げ(減租減息)を実行し、地主を打倒するしかない。これは、当時農民を啓発する作用はとてもおおきかった。
    当時農民運動の発展と軍隊の移動(調防)のために龍岩の白色テロは少し緩和されていた。龍岩を引き受けた(担当)とき、何人かの共産党員が監獄にとらわれていた。上杭の国民党が回復し県党部は我が党が掌握していたので、省委員会の羅明の指示で、龍岩支部は私に上杭へ代表団を組織させ、上杭駐留軍藍玉田に(龍岩の軍隊は上杭から派遣されていた)逮捕されている同志の釈放を要請(請願)した。この要請は成功し、6人は一斉に釈放され、龍岩の白色テロの局面は収束した。
   当時福建の「清党」(訳注 党内闘争のことか)後、国民党省党部には龍岩の人(詹调元)が内部におり、委員会は「左派」分子苏庆云(九中の同窓生)を龍岩重組県党部に派遣、県党部の宣伝委員たる謝宝萱、組織委員の郭滴人は等しく共産党員だった。公開活動の便宜のため私は県党部秘書を担い、郭滴人同志とともに労働者運動と農民運動に共同して責任を負った。

#鄧子恢 #減租減息


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