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胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769

 胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。
 しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧小平は試行と拡大を容認した。中央ではこのことは批判され、3月17日政治局拡大会議で彼は厳しい批判を受けた(内容は書かれていない)。胡耀邦はその後も1986年4月の中央書記所会議で、政治体制改革小組の設立を決め、5月2日の中央書記所会議では、中国政治体制の欠陥を研究解決するのにマルクス主義的観点を用いる必要がある(この意味は不明)、民主監督がなければ腐敗が生まれる(これは正しい)などと述べた。
 こうした胡耀邦の主張は、鄧小平の意向でもあったと思われる。1986年6月に鄧小平は、「政治体制改革と経済体制改革は相互に依存(依頼)相互に対応(配合)しているべきで、あらゆる改革が成功できるかどうかは、政治体制改革にかかっている」と述べている。しかしこれを全面的西欧化、資産階級自由化と捉える向きもあり、1986年9月中共十二大六中全会は、「中共中央の社会主義精神文明建設指導方針の決議」を採択。この決議は胡耀邦自身が起草したとされる。
 翌年の十三大に向けて政治体制改革について、10月3日の会議で胡耀邦により披露された項目は5つ。認識論、改革、外交、党内生活、終身制の5つである。11月11日の起草小組での会議での胡耀邦報告はさらに具体的で、改革の目標は3つ。党と国家の活力を保証する。官僚主義を克服し効率を高める。基層の積極性を促し(調動)、権力を下放する。さらに。政治体制改革を進め、党と政治を分離(分開)する。終身制を廃止して、若返りを実行する。
 (この文章を読んでよくわからないのは、組織の若返り自体は正しい。しかし終身制の廃止は、どうしても邪魔になる年寄りを排除する規定に見えてしまう。具体的にはでは鄧小平、陳雲、李先念、胡耀邦ら指導部はどうするのかという疑問が当然でてくる。自分たち指導部は例外として残って終身制を実施するのか?いずれにせよ、終身制廃止の提起は老幹部の間に不満を醸成したと考えられる。たとえば楊尚昆(1907-1998)、薄一波(ボウ・イーボ 1908-2007)といった人たちにすれば、終身制廃止は理不尽に見えたのではないか?そうした不満と、改革の方向を社会主義の方向として理解できなかったことが、無私無欲で、ただ文革で傷ついた人々の名誉回復に尽力した、胡耀邦を引き下ろす結果につながったのではないか。)
    こうした中で、自由化・民主化を求める学生運動が1986年12月、十八の省二十八の大学で表面化した。背景にはロシアのゴルバチョフが民主化を進めたこと、台湾で戒厳令が取り消されたこと、など周辺諸国の動き、中国政府自身が進めてきた改革開放政策があった。この学生の動きは12月下旬には、収まったのだが、鄧力群,王震、胡橋木、薄一波など7人は鄧小平宅を訪れ、問題は胡耀邦の指導性のなさにあると主張し、胡耀邦にこの情況の責任があるとした(12月27日)。
 そして1987年1月10日から16日まで薄一波主宰で民主生活会が開かれた。これは実際には、胡耀邦を批判するというもの。1日半の休憩をはさんで5日半進められた。滿妹によれば、趙紫陽(チャオ・ツーヤン 1917-2005)が言葉激しく胡耀邦を批判したとのこと。しかしこれに先立って1月2日に、胡耀邦は鄧小平に総書記の職務を辞することに同意する手紙を提出。4日に鄧小平宅に、趙紫陽、陳雲、萬里、楊尚昆、薄一波、王震、彭真などが集まり、まず生活会を開きその後政治局拡大会議で生活会の内容を報告、胡耀邦の辞職を明らかにするなどの流れが決められている。(胡耀邦の突然の辞任を正当化するためにこうした流れができたのであろうが、胡耀邦を集団で苛めて退職に追い込んだように見えることも事実だ。)
 1月16日、胡耀邦はここで中央総書記の職務を辞しているが、中央政治局委員、中央政治局常任委員の職務にはとどまっている。また趙紫陽が党中央総書記代理に推薦された。

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