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胡耀邦 議論を主導し総書記へ 1977-80

 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版·2015年で描かれている1977年の胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-89)の姿は、政治の中心で議論に参加・主導した、生き生きとした姿である。自信にあふれた姿がそこにはある。

中央工作会議 1977年11月10日から12月15日
   胡耀邦は1977年8月の中国共産党大11次代表大会で再び中央委員に選出された。十一大の政治報告は四人組の粉砕と、文化大革命の終わり(結束)を宣言(宣告)した。中央は十一届三中全会の招集を決定。その準備のための中央工作会議が11月10日から開かれた。ここで11月12日東北組において、陳雲が四つの現代化は全国人民の切迫した願望だとしながら、安定団結のため、遺留問題について中央が考慮決定する必要があると発言した。六十一人叛徒問題、いわゆる自首分子問題、陶鋳、王鶴寿などの問題、彭徳懐の問題、天安門事件、康生の誤りの6つを胡耀邦が提供した材料により発言したとされる。
 13日西北組で発言した胡耀邦は、文化大革命での未解決問題を正す必要があるとして、まず幹部の中での誤って罪に落とされて人々の名誉回復を訴えた。人事から外された幹部は1700万、その中で各種の審査を受けたもの200万、また人事から外されないが審査をうけた基層幹部も200万に達する都市1979年の建国30周年までに基本的に正すべきことを正すことを訴えた。そのほか、六十一人問題、彭徳懐、陶鋳、王鶴寿問題などに言及し、徹底した名誉回復を主張した。また康生にも言及。中央党校によると彼が、叛徒の汚名を着せた人は600人余りに及ぶとした。さらに胡耀邦は文革の教訓を総括する必要にも言及した。
 陳雲、胡耀邦の発言には多くの賛意が寄せられた。当時、鄧小平はシンガポール、タイなどを歴訪中(11月5日から14日)であった。華国鋒は胡耀邦の見解に賛同を表明、またさまざまな党内有力者からも、文革中の政治事件の名誉回復を訴える意見が寄せられた。中央政治局常任委員会そして政治局での討議と研究を経て、11月25日華国鋒は中央政治局の会議で次のように宣言した。
 (1)天安門事件は完全に革命的群衆運動である。それゆえ天安門事件(で処分された者)は公に(公開)徹底的に名誉回復される。(2)いわゆる2月逆流で誤って処分されたすべての同志は一律に名誉を回復される。(3)すでに証明されている「薄一波など六十一人案件」は一大冤罪事件であり名誉回復されるべきである。(4)彭徳懐がかつて党政軍の重要指導職務を担当し、党と人民に重大な貢献を行った、彭徳懐が外国に通じたというのは根拠がなく否定されるべきである。(5)陶鋳は数十年の工作中、党と人民に貢献があり、再調査の結果、彼を叛徒としたのは誤りであり、名誉回復されるべきである。(6)楊尚昆が反党の陰謀を図り、外国に通じたというのは正しくない、名誉回復されるべきである。(7)康生、謝富治に民衆は激しく憤っており、進められている批判は事情に合っており合理的でもある。(8)いくつかの地方の重大事件は、各省、市、自治区党委員会が情況に合わせ実事求是の原則で処理されるべきである。
 中央工作会議終盤に陳雲、胡耀邦、鄧穎超、王震の4人は中央政治局委員に、陳雲はあわせて中央政治局常任委員と副主席を兼任とすることが時間をかけ(醖釀)討論された(この時点の常務委員は華国鋒、葉剣英、鄧小平、李先念)。
 12月13日 中央工作会議閉幕にあたり華国鋒、葉剣英、鄧小平は講話を行った。葉剣英の講話は胡耀邦が起草したものを葉剣英自身が推敲を重ねたもの、鄧小平の講話は、鄧小平のメモをもとに、国務院の林潤青などが起草、胡耀邦、胡橋木,于光遠なども加わり推敲を重ねたことが分かっている。
 まず華国鋒の講話は会議の成果を肯定するとともに、自ら掲げた「二つのすべて(兩個凡是)」という標語と真理の基準(標準)の問題について、自己批判をすべきとしたもので、また集団指導においては、英明な指導者といった表現は不要だとした。
 葉剣英は中央の副主席、政治局常任委員序列2位としてまず、今回の会議では全員が(大家)発言し民主が発揚されたことは大変良い始まりでこれを永遠に堅持すべきだと述べた。そのうえで三点を述べた。一点目は、健全な民主集中制のもとで指導グループ(領導班子)を選ぶべきであること。我々は年老いており、心して若い同志が責任に挑戦すること(來挑擔子)を積極的に支持するべきだ。二点目は社会主義現代化を実現するにあたっては、民主集中制をまじめに実行する必要がある。民主が発揚され、幹部大衆が指導者を監督批判する権利が保障されてこそ、林彪や四人組のような陰謀家、野心家を暴露することが可能になり、我々の政権や社会主義現代化事業を十分保証できるのだ。三点目は多くの同志は社会主義現代化にあたって思想の準備が足らず一歩前に出ることを恐れている。資本主義を復活させると帽子を被せられることを恐れるのではなく、中国が貧しく遅れていること、この現状に答えないでいることを恐れるべきだ。
 12月13日の終幕に鄧小平の講話が読み上げられた。それは四つの部分に分かれている。まず最初に思想の解放を訴えている。思想が解放されてはじめて正確にマルクスレーニン主義、毛沢東思想に指導され、過去の遺留問題を解決し、新たに出現する一連の問題を解決し、生産力の迅速な発展と適合しなくなっている生産関係と上層建築を正確に改革し、わが国の実際の状況にもとづいて4つの現代化の具体道路、方針、方法、措置を確定実現できる。
 二番目に民主が解放思想の重要条件だとし、そのためには法制を強化する必要があるとしている。民主制度化や法律化は、指導者が変わったから変わる、指導者の見方や注意することが変わったから変わるというものであってはならない。検察司法機関も厳格に法によって執行されるべきで、違法行為は追究されるべきだ。
 三番目に歴史遺留問題の処理を前に進める。誤りは必ず正すという原則のもと、過去の誤りは正されねばならない。内外で毛沢東同志と文化大革命の評価問題に関心が高いが、毛沢東同志については過去の偉大の貢献は消すことはできない。文化大革命については科学的歴史的に見る必要がある。ただし急ぐ必要はない。さらに長い時間を経れば、十分に理解評価できるだろう。
 四番目、新たな情況の研究、新たな問題の解決について。管理については官僚主義の克服に注意して、経済的方法、経済を管理することをまなぶべきで、責任制を強化するべきだ。すでに一部の地区、企業で上がっている成果に学び広げることで、国民経済を発展させ、全国人民を速やかに豊かにすることができる。
 なお11月10日に始まった中央工作会議はさらに2日続けられ、15日に閉幕した(36日間)。

十一届三中全会 1977年12月18日から22日
 この後、12月18日から22日まで5日間、十一届三中全会が開かれた。中央委員と候補中央委員が出席、胡耀邦は中央委員の一人として出席している。農業問題、1979年1980年の国民経済計画が審議すべき問題で、このほか人事問題、中央規律検査委員会の設置があった。
 この十一届三中全会ですでの中央工作会議での十分な議論を経て、陳雲が中央政治局常務委員に追加選出された。また(陳雲に加え)胡耀邦は鄧穎超、王震とともに中央委員会副主席に追加選出された(同前)。なおこの結果はのちに十二大で追認された。胡耀邦は、中央規律検査委員会の選出の準備を中央政治局の委託を受けて進めたとされる。12月16日に胡耀邦は、中央規律検査委員の候補者99人の名簿を提出、選出の考え方について報告を行っている。12月22日に陳雲の強い希望により胡耀邦を含む100人が選出され、第一書記陳雲、第二書記鄧穎超、第三書記胡耀邦とされた。
 三中全会が閉幕したあと、12月25日の中央政治局会議は、新たに選出された副書記4人の分担をつぎのように決めた。陳雲が中央規律委員会と公檢法,民政など政法部門、鄧穎超は工、青、婦など群衆団体、胡耀邦は中央日常工作と宣伝工作、王震は国防工業部門。
 また、中央秘書長、副秘書長を置き中央指導同志の日常工作処理を協助するものとし、胡耀邦を中央秘書長兼中央宣伝部長に任命した。なお、副秘書長は胡橋木,姚依林。華国鋒が依然として中央主席であったが、こうして鄧小平が実質的に指導集団の核心である体制が確立された。胡耀邦は宣伝部門を担当するとともに、文化大革命中の冤罪の名誉回復に尽力している。

冤罪の名誉回復に奮闘 1978-80年

総書記に就任 1980年2月
 なお胡耀邦が総書記に選出されるのは、1980年2月に開かれた十一届五中全会において。この時まず中央政治局常任委員に、胡耀邦と趙紫陽が追加選出(増選)され、その後、胡耀邦が中央委員会総書記に選出されている。また中央書記所を回復設立し、中央政治局と常務委員会の指導のもと、日常工作にあたることとなった。(なお趙紫陽は1979年9月に彭真とともに中央政治局委員に追加選出されている。)

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