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赤坂氷川神社

 私はかねて都区内の神社で江戸時代の面影を残すのは、根津神社だと勝手に思いこんでいたのだが、赤坂氷川神社を初めて訪れて、自身の思い込みを恥じた。根津はたしかに建物は立派だが、赤坂氷川の緑陰には負けると思った。これだけ奥深い緑が、東京の都心に残されていたことにもただ感心した。この緑陰は本当に素晴らしい。
 旧徳川家出身の吉宗公(1684-1751)は、第八代征夷大将軍である(在職1716-1745年)。将軍となったあと、赤坂一ツ木村でかねて祀られていた氷川明神の社殿を新たに現在地に享保十四年1729年に幕府の費用で造営し、翌十五年1730年一ツ木村より遷座を求め、その後、吉宗公自ら直々参拝したと伝わる。それがこの赤坂氷川神社である。赤坂にあった紀州藩中屋敷に居た吉宗は、赤坂一ツ木村に祀られていた氷川明神に詣でたことがあり、将軍職に就いたあと、氷川明神への崇敬の念を強め社殿を寄進したいと考えたのではないか。
  第五代将軍綱吉(1646-1709   在職1680-1709)が宝永三年1706年に造営した根津神社と比較すると、幕府造営という共通点はあるものの、赤坂氷川神社は質素というか、少なくとも派手ではない。あえていえば、氷川神社には庶民的な雰囲気さえある。二つの神社はそれぞれに良いのだが、建物が立派かどうかは些末なことであり、雑踏はむしろ余計なことだと考えると、赤坂氷川の神社らしい神々しい「雰囲気」は高く評価できる。 
 赤坂氷川神社の社殿は、幾多の天災や、第二次大戦の空襲による被害を奇跡的に免れたもので創建当時のままとされる。境内の樹木にも、古いものが散見され、中には推定樹齢400年を上回るもの(赤坂氷川神社の大イチョウ)もみられる。結果として、当社の緑陰の濃さは、根津を上回っている。
   なおこの神社の場所は、忠臣蔵の浅野内匠頭の正室の実家三次藩浅野家の下屋敷があったところ。浅野家は世継ぎに恵まれず享保三年1718年に断絶になったとのこと。その跡地に、神社は建てられた。
 アクセス 東京メトロ千代田線赤坂から徒歩10分。しかし実は道に迷った。それでも、結果として氷川坂を見つけ、どうも大正期に作られたらしき鳥居から神社に入ることができた。この氷川坂の途中から階段を経て神社に入るルートを辿る人はなぜか少なかったが、参道の鬱蒼とした緑はなかなか素敵だった。階段を上がると大きな広場が現れ、左手にイチョウの大木があり、正面には今一度、鳥居が見えた。
 

嘉永5年1852年奉納の銘がある灯篭がお出迎え
右手はイチョウの御神木 灯篭 その先に茅の輪
茅の輪
茅の輪のくぐり方
夏至の花手水
赤坂氷川神社社殿
日曜であるためか、江戸末期の山車(だし)が公開されていた


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