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趙紫陽 出生から入党まで 1919-38

 蘆躍剛の『趙紫陽傳』INK印刻文学2019年を読み始めた。趙紫陽(1919-2005)については退任後の発言は分かっており、開明的な思想に至ったことは分かっているが、主席になる前のところの人生は、実はよくわからないところがあった。本書でその空隙を埋められると期待して読み始めたが、この本はまず書き方が時間に沿っていないので、よみにくい。別に編年体の趙紫陽伝を書いて欲しいところだ。以下はpp.70-98から抜粋再編集。

 まず趙紫陽は河南滑県趙荘の地主(趙荘では二番目に大きな地主であった)の家庭で長子として1919年10月17日に生まれたとある。父が与えた名前は修業、あるいはまた宣成、字は養之である。趙修業、これが元の名前である。上に姉が二人。滑県は河南でも人口の多いところ。父親の趙廷寶は隣村の私塾で数年学んでいる。しかし間もなく学習をやめて、商売をするようになった。また木匠であったとも。母親の劉穏は河南長垣県小渠の人。

 趙紫陽は、小学校にゆくまでは家庭内で教育を受けた。その後、地元の県立十七小学に学ぶ。この小学に共産党の支部が設けられたこと、そして左翼作家の小説を読むなどの教育が、趙紫陽に影響を与えたのであろう。推定では1932年に趙紫陽は共産党青年団に入団(さらに1938年に共産党に青年団から転入)。1933年6月、趙紫陽は受験して10倍の難関を突破、河南省開封省立第一初中に進学し、1936年にはさらに武漢湖北省立武昌高級中学に進んだが、1937年七七事変で抗戦が全面的にはじまり、故郷に戻っている。当初、趙紫陽は国軍に参加するが、十七小学校長の楊慶然の影響もあり、国軍を離脱。青年分子が行っていた「通俗学社」の活動に参加している。
 (地主出身の趙紫陽の扱いを共産党は慎重だったかもしれないが)滑県工作委員会書記李光禄の提案で、趙紫陽は入党、その半年あとには、滑県県委員会書記に就任している:1938年9月。その前に、趙紫陽は山西黎城県寺底村中共北方局党校で4ケ月学んでいる。第一期訓練班に滑から派遣された3人の一人。地元の期待が厚かったことがわかる。なおこの党校での学習時に、趙は「紫陽」と改名したのである。もどってすぐに19歳で書記という結果も幹部としての成長が期待されていたことがわかる。そして趙紫陽はこのあと、党勢の拡大に努めることになる。)

 趙廷寶は1947年7月、55歳のときに心臓病で亡くなり、母親の劉穏は1976年10月に88歳の高齢で亡くなっている。蘆躍剛は時間を飛ばして書くのだが、1988年の農暦7月初七に起きた、二人の墓が荒らされた事件に触れている。

(考えてみるとすでに国家のトップであった趙紫陽の両親の墓が荒らされた1988年の事件は大変な事件に思える。蘆躍剛は原因を推測している。)一つは1938年から47年にかけて、趙紫陽は県委員会書記、地方委員会書記を9年勤め、その間には激烈な土地改革闘争があった。その恨みによるとの説。もう一つは風水の観点から、埋葬の仕方が風水を乱しているので、墓を壊したという説、またそれには運を変えるという説もある。(蘆躍剛はこの風水説をとっているように読める。農暦で意味のある日に起きたことから、そうかもしれないと私も思う。)人民公社以降、中国の農村では農地を確保する意味もあって、墓を壊したり移動する「平墳運動」もあった。この事件のとき、地元の公社書記から書簡を受けた趙紫陽は、明らかに不機嫌だったが、「何も意見はない」と書簡をそのまま持ち帰らせている。

 趙家は抗戦期間中、共産党に金銭、糧食を提供した開明士紳であった。しかし土地改革で起きたことは、こうした趙家からもすべての財産を奪うことだった。そうした貧しさに陥った中で、趙紫陽の父は1947年7月になくなっている。そのとき趙紫陽は地方委員会の書記で土地改革の責任者だった。このときも趙紫陽は父を助けることはできず、ただ薬をもって急いで帰宅しただけだった。このような経緯を見ると、趙紫陽が実は複雑な思いで、共産党員であったことが推測できる。

 なお趙紫陽少年に大きな影響を与えた人物として、蘆躍剛は父の弟の趙順喜をあげる。趙順喜は学問が好きで、最後は北京の私立中国大学で学んだ。そこで国民党に入り、一度師範学校の教師を務めたあと、延安抗大でさらに学んだ。そのあとは国民党支配地区で県の教育局長などを務めている。しかし「国民党員」「国民党支配地区の教育局長」などの経歴は新政権の受けいれるところでなかった。趙紫陽との音信のなかで、共産党との関係を探ったものの、結局、1953年に趙紫陽に手紙を送って間もなく、自殺したとされる。そのとき趙紫陽は河南局の副書記だったが、かつて趙紫陽の進学を助けてくれた、趙順喜を助けることはなかった。
 父との忠、伯父との義、いずれも趙紫陽は、犠牲にしたことになる。

#趙紫陽

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