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宋彬彬そして黃師

 まず宋彬彬(ソン・ビンビン 1947-)は新中国建国に貢献のあった軍人宋任窮(ソン・レンチオン 1909-2005)の娘(次女)である。彼女は北京師範大学付属女子中学の学生だった1966年、同中学の紅衛兵組織の先頭に立った。彼女の指導のもと、同中学では、多くの教員・生徒が紅衛兵のむき出しの暴力にさらされ、ついには8月5日、校長の下仲耘(シア・チョンユン 1916-1966)が死亡するに致った。事実上の殺人である。これは文化大革命における教育界における殺人の最初の例になった。同中学ではその後も殺人や自殺者が続いた(8月5日前後の経緯については 沙柚『父の帽子』幻戯書房2003年 第5章に具体的な記述がある)。
 宋彬彬はその後、8月18日、天安門での紅衛兵閲兵式において、とくに門上で毛沢東から、声をかけられ、その武闘をほめられている(柯隆『中國「強国復権」の条件』」慶應義塾大学出版会2018年p.114は、毛沢東に誉められたのでそのあと、校長先生を皮のベルトで殴り殺したとしている。日付けからすれば、閲兵式の日には校長は亡くなっている。私の理解では、校長を殴り殺した武闘を誉められたのだ。ただ後述するように、彼女は自分は直接手を下していないと、その後、発言するようになる。仮にそうだとしても殺人を指示したことは間違いない。彼女は文革収束後、米国に逃げているが、なぜ殺人犯として有名な人物を米国が受け入れたのかは基本的にはナゾだ。)
    8月18日の毛沢東の紅衛兵閲兵後、紅衛兵の動きは一層、歯止めがかからなくなる。重慶で重慶大学校長の李達が殺されたのは8月24日である
 宋彬彬はこの文化大革命という問題で、極めて残虐な殺人犯の一人として有名である。ところがこの人のその処遇は大変奇妙である。文革が収束したあと、この人は中国科学院の研究生になっており(1978-1980)さらに奇妙なことに1980年という中国から海外への留学が極めて限られていたときに、米国に留学、その後米国で学位を取り、米国で働いて米国籍を取得している。何か大きな力が、この人を文革の責任問題から徹底して守ったように見える。実はお父さんの宋任窮は中国革命の初期から毛沢東のもとに参じた人。日中戦争時は鄧小平を補佐する形で八路軍にいた。文革収束後は、胡耀邦のあと組織部長に就任。文革で痛めつけられた多くの人々の名誉回復を主導した。その時期と宋彬彬が科学院研究生となり、米国に留学した時期は一致している。
 文革におけるとくに紅衛兵による殺人や破壊についての責任追及がほとんどなされない背景に、共産党幹部の子弟が紅衛兵運動の先頭にたっていた問題が絡んでいると、私は感じるのだがその中でも犯罪がはっきりしている、殺人犯である宋彬彬が海外にいち早く移動できたことは、この問題を象徴しているように思える。宋彬彬の扱いが異例であることの極めつけは2007年9月、北京師範大学付属女子中学後継の北京師範大学付属実験中学が栄誉校友90人の一人に宋彬彬を選出したことであろう。彼女の国籍を米国として、安全なところに隠すだけでなく、北京師範大学付属実験中学は極めて残虐な校長殺しを行った殺人犯に驚くべきことに名誉まで与えたのである。中国社会の政治による歪みをこれほど象徴する例はないだろう。
 それでも宋彬彬が過去の犯罪を人間として反省しているのであれば浮かばれる。しかし彼女の過去についての発言をみると、殺人について彼女は自身が殺したわけではないとしてその直接の責任を認めていない。ところがである。奇妙なことに2014年1月に彼女は母校を訪問、関係者に謝罪してみせた。多くの元紅衛兵が、自身が行った殺人や破壊を隠して中国社会で生きている中で、宋彬彬が公衆の前に姿を現し謝罪したことは、それはそれで一つの勇気であるように思える。しかし本当に自身の責任を認めた心からの謝罪なのか、その謝罪文は責任について曖昧で読んでも実はよくわからない。

 実は宋彬彬はたまたま何をしたかが分かっているケース。紅衛兵として残虐行為を行いながら、その行為を隠して、平然と中国社会で生き残り、特権階級に属している人が多数いるのではないか。中国社会の大きな闇は、実は人殺しを繰り返して、社会主義社会を作った点にあるのではないか。国民党だ地主だ農民だ、右派だ。「人民裁判」とか「階級闘争」など看板はさまざまだが、いろいろな名目で人殺しを平然と繰り返した、狂った社会が中国ではないだろうか。その罪を曖昧にしているという意味で、中国ななお社会倫理を正していない。そのことが、殺人犯宋彬彬が平然と中国社会に舞い戻り公衆の面前に現れたことからも伺える。

 宋彬彬による校長殺害は1966年のこと。文革はその後も続き1973年に現れたのは黄師(ホアン・スー 1961-2017)である。彼女はこのとき小学校5年生。学校で先生から指導を受けたことを『北京日報』に投書。この投書が政治的に利用され、教育界における修正主義を批判するものとして、『北京日報』がまずその投書の一部を報道(12月12日)。続いて『人民日報』が全文を報道して(12月28日)、やや息切れしていた文化大革命が再燃する契機になった。黄師が自分の書いた文章が新聞に載ったことをどう考えたかは分からない。ただわかっていることは、文革のあと、日本に来て就職し日本人と結婚したこと。その後、中国に帰り、最近のことだが2017年にがんで亡くなっていることである。(趙平はその自伝的な書物のなかで、黄師の文章が人民日報に掲載されたことを、子供の文章を利用して知識分子を貶めるものと批判した、趙平に英語の家庭教師をしていた中学校の校長先生が、革命の情熱に燃えた若者たちに乱暴されて死亡するに至ったことを記録している。北京の小学生黄師の正義感は、遠く離れた貴州省貴陽市で殺人につながったことになる。さすがにそこまで黄師に責任を求めるのは無理がある。殺人を犯すほど人間性を人々が失ったのは、社会の仕組みのせいで、個人に責任はないという言い方がある。だとすれば、その社会の仕組みは誰の責任なのだろうか? また社会の仕組みの責任の問題は問題として、だからといって個人の責任は免罪されるのだろうか。たとえば乱暴して殺人を犯した個人は、その殺人に全く責任がない、といえるのだろうか。趙平『私の宝物』連合出版2017年pp.217-223)。
 こちらの事件については余華『本当の中国の話をしよう』河出書房新社2012年pp.82-84にも詳しい記述があり、問題の深刻さがみえる。文革によって、児童・生徒は教員を批判し、失脚させることもできた。1973年。こうした動きはかなり収まり、黄師の教室では、そうならなかった。先生批判をした黄師は教員の怒りをかい、黄師が叱られたのである。そこで黄師は新聞に投書をした。そしてこの投書を利用して、文革を再燃させることは、文革支持派に都合がよかった。そのようにみると、彼女の行為は高度に政治的であることがわかる。当時、批判が何を招くかは小学生の低学年でも知っていた。まして彼女は小学校でも高学年だ。彼女のした行為は、その意味で悪魔的行為といえる。彼女を生んだ社会がいけないという、言い方では抑えきれないものを感じる。彼女はすでにこの世にいないが、新聞への投書をその後どう考えたかを聞きたいところだ。
    なお鳳凰網2009年10月27日の記事から、いま少し詳しい事情が分かる。日記を見て新聞に投書を強く促したのは両親である。となるとこの両親が、こども可愛さに子供を叱った先生を陥れようとした構図が丸見えである。子供以上に道理がわかっているはずの両親が、社会的に批判されたのは当然であろう。黄師からの手紙を受け取った北京日報ではすぐにこれを掲載したわけではなく、とりあえず内部刊行物にこの件を載せたところ、それが江青らの目に留まり、事態が一気に拡大してしまったとされる。

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