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余華「中国について」2010

 余華(ユー・ホア 1960-)は、小学生から中学生という多感な時期が文化大革命の時期。歯医者になってから作家に転業した変わり種である。お父さんは外科医、お母さんは看護婦だが、1980年代の中国では医者は専門職ではあるが、労働者並みの扱いだったこと(たとえば歯医者には見習い修行でなれたこと)、それに比べ作家になることの方が自由時間があり稼げる夢があったことが理解される必要がある。そして住んでいたのは地名からたどると現在の浙江省喜興市海盐县である。浙江省の北部、渤海湾に面した地方都市。ここで取り上げたのは、彼が2010年に出版した『十個詞匯裏的中國』の邦訳飯塚容『ほんとうの中国の話をしよう』河出書房新社2012年。本書によれば、文革が繰り広げられる町の中で小学生あるいは中学生だった彼は、多数の公開処刑をみたり、配給券の密売の取り締まりを正義感から自身行ったりしている(訳pp.136-138)。つまり、彼は文化大革命で被害を受けた側ではないが、今彼は被害を受けた、弱者の痛みを苦く思い出している。(なお彼のお爺さんは地主だったが、放蕩の末に解放前に土地を失った。そのおかげでお父さんの出身区分は地主ではなく中農だったが、一家は政治的批判を受けないように用心して過ごした。又お父さんは農村に下放して病気の治療をしてまわることで、文革を乗り越えた。訳p.77-81 小学校一年のとき、同級生のお父さんが走資派:資本主義の道を歩む実権派として、打倒された。いつも彼に微笑みをくれたそのおじさんは痛めつけられた末に自殺した。著者の記憶に残るのはおじさんが自殺したあと、その同級生が運動場の片隅で泣き続けていたことだ。訳pp.178-179  父親が走資派とされるとその子供たちも学校で侮辱と蔑視を受けるのだった。訳pp.76-77)

 私の幼年時代、「人民」は「毛主席」と同じく、輝かしい言葉だった。・・・幼かった私は、「人民とは毛主席のこと、毛主席とは人民のこと」と考えた。・・・(両親は)おずおずと私を見ながら、遠回しにこう言った。その言い方は間違いではないが、口にしないほうが無難だな。訳p.10

    「趙紫陽が入院した」当時の政治的環境の中で、政治家が病気を理由に入院したといえば、権力を失ったこと、あるいは身を隠したことを意味する。厳家其が趙紫陽入院のニュースをもたらすと、(中国社会科学院の)会議室にいたインテリたちはすぐに何が起こったのかを理解した。こっそり抜け出そうとする者もいる。その後、インテリたちは秋風に吹かれて散る木の葉のように立ち去った。訳p.15

    文革が始まると、壁新聞が出現した。・・・壁新聞の出現は、弱い群衆が強い役人たちに挑戦する最初の行為だった。訳p.24

 (2010年)多くの人が毛沢東時代を懐かしく思うようになった。大多数はただ懐かしんでいるだけで、本気であの時代に戻りたいと考えているわけではないだろう。これらの人たちにとって、毛沢東時代は生活が貧しく、人間性が抑圧されていたけれども、普遍的かつ残酷な生存競争はなかった。あったのは空虚な階級闘争だけだが、当時の中国には実のところ、階級は存在していない。だから、そのような闘争は単なるスローガンでしかなかった。あの時代の人々は衣食を切り詰め、平等に暮らしていた。注意を怠らなければ、誰もが平安に一生を過ごすことができた。訳pp.33-34
 今日の中国はまったく変わってしまった。激烈な競争と巨大な圧力が、多くの中国人の生活を戦争状態に陥れている。このような社会環境の中では、弱肉強食、搾取強奪、ペテンが当然のように流行する。分に安んじる者はしばしば淘汰され、大胆果敢な者がしばしば成功を収めるのだ。価値観の変化と財産の再分配は社会文化を促し、社会分化は社会衝突をもたらす。今日の中国にはすでに、本当の意味での階級と階級闘争が生まれている。
 鄧小平は毛沢東亡きあと、その個人的威光によって中国の改革開放を推し進めた。しかし、この老人が人生の最後の数年に思ったのは、発展後に生じた問題は発展前よりも多いということだった。
 毛沢東が逝去後もしばしば「復活」するのは、中国の発展以降に生じた余りにも多くの社会問題のせいかもしれない。訳p.34 

    文学に神秘的な力が本当にあるとすれば…まさにこれがそうだと思う。読者は異なる時代、異なる国家、異なる民族、異なる言語と文化の作家の作品から、自分なりの感動を得ることができる。訳p.74

   創作を始めた当時を思い出すと、まるで別世界のことのようだ・・・それは我々の世代の中国人特有の経験によるものだ。我々はたった四十年のうちに、一つの国の中で、まったく違う二つの世界を経験した。訳p.76

   文革中、人々は壁新聞を書くことに熱中した。・・・当時の壁新聞は千篇一律で、基本的に『人民日報』の剽窃だった。・・・今日のブログは千差万別だ。・・・一つだけ似ているのは、文革中の壁新聞も今日のブログも、自己顕示欲を満たすためにあるということだ。訳p.76

   私は二十二歳のとき、歯を抜きながら創作を始めた。・・・天国のような文化センターに就職するために、私は自らに鞭打って書き続けた。・・・のちに、よく若い人から質問を受けた。「どうすれば作家になれるのですか?」訳pp.93-94
 私の答えはただひと言、「書く」ことだ。書くことが経験になる。人は何か経験しなければ、自分の人生を理解できない。同じ理屈で、人は何か書かなければ、自分が何を書けるか理解できない。訳p.94

   私は自分の成長過程の経験が、1980年代に書いた多くの血生臭い、暴力にあふれた話に結び付いたのだと思う。訳p.103

  私は胸に手を当てて考えてみた。どうしていつも、人に殺される夢を見るのだろう?そして、昼間に血と暴力の話を書きすぎたせいだと気づいた。・・・こうして、その後の私の創作は・・・血と暴力の傾向が弱まった。訳p.108-109

    「黒猫でも白猫でも、ネズミを捕まえるのがよい猫だ」鄧小平のこの言葉は、毛沢東の社会的価値観を覆し、中国社会に昔からあった事実を指摘したようだ。一つの日の中に、しばしば正しいものと間違ったものが同時に存在する。・・・この言葉は、中国の経済発展における、社会主義と資本主義の論争にも終止符を打った。
 こうして中国は、毛沢東が政治指導者として君臨する単色の時代から、鄧小平による経済至上の多様性の時代へと変わった。・・・今日の中国では、もはや何が資本主義で何が社会主義か、見分けがつかない。訳p.141

 毛沢東時代の社会主義は発展の歩みが遅く、経済効果も小さかったが、社会的格差は確かに縮まっていた。毛沢東がついに解決できなかったのは都市を農村の格差である。鄧小平が唱えた改革開放から三十数年、中国経済は全体に迅速な拡張を続けてきた。・・・しかし、都市と農村の格差は縮小するどころか、むしろ広がっている。訳pp.142-143 

   わが国の経済の奇跡の中には、大躍進式の革命運動があり、文革式の暴力もあったのだ。訳p.154

   1958年8月から、中国では「郷」という行政単位が廃止され、一斉に人民公社が誕生し、一斉に公社の共同食堂が作られた。農民は自分の家で食事をせず 、公社の食堂で大勢が一緒に飲み食いした。・・・公社の食堂は無計画に食糧を使い、やたらに浪費した。・・・
 大飢饉が冷酷無情に中国を襲った。それ以前に各地区とも、食糧について虚偽の報告をし、国家の徴収量が実際の生産量を上回っていた。虚偽の報告は、地方の役人が手柄を上げようとしたもので、痛ましい代価を支払うのは農民だった。訳p.157

    文革ののち、中国では天地がひっくり返るような変化が始まった。・・・しかし公印の地位は依然として変わらない。・・・だから、公印を強奪する事件は今日の中国でもなお、頻繁に起こっている。訳p.163

   (都市開発における立ち退きにおける暴力行為)pp.167-169

    我々の経済の奇跡、あるいは我々が誇りに思っている経済効果は一定程度、地方政府の絶対的権威、行政命令のおかげなのだ。それはすべてを変える力を持っている。単純で粗暴だけれども、経済発展の成果はすぐに表れる。だから、私は西洋の知識人に伝えたい。政治が不透明だからこそ、中国経済の飛躍的発展があるのだ。pp.168-169

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