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薛暮橋 鄧小平宛上申書1978/04/18 社会主義経済問題研究の出版1979/12

(筆者記載なし)《改革開放中的薛暮橋:冲破左傾“禁區” 》載《中國改革信息庫》  2014年7月17日 (閲覧2015年6月15日)
 1976年四人組は粉砕され、「文革」の大災難(浩劫)は終わったと宣言された。しかし1977年と1978年の2年間、全国の誤った路線を正す(糾正)工作はこれまでになく何も決められなかった(徘徊)。薛暮橋は憂いのあまり(憂心忡忡)何度も熟慮したうえで、率先して高い目標、高速度に対して質疑を提出することを突破口に中央に上書して、得失を直言して(直陳利弊)左傾のタブー(禁区)の突破を試みた。

1.「洋躍進」を憂慮見直す
 1976年に四人組は粉砕され「文革」の大災難は終わったと宣言された。しかし薛暮橋がみるところでは、1977年と1978年のこの2年間、誤った路線を正す工作はこれまでになく何も決められず(徘徊不前)、重大な障害にぶつかっていた。これについて薛暮橋は憂いがつのった。薛暮橋は深く感ずるところがあった。「ただ林彪と四人組の罪業を批判するだけでは十分でない。必ず過去20年間の「左」傾の誤りが正さなければならない。そうでなければ、わが国社会主義現代化建設は正しい道路の上を進むことはできない。」
 1978-1977年の2年間に、成果を急ぎ(急於求成)、過渡を急ぐ(急於過渡)傾向がなお拡張された。農業方面では1980年までに全国3分の1の県を「大寨縣とする(建成爲大寨縣)」 と要求された。3年のうちに全国農業機械化を基本実現する要求があった。毎年生産大隊の10%を基本予算(核算)単位に引き上げることが要求され、到るところで自留地、家庭副業、自由交易市場(集市貿易)が批判された。工業方面では1985年の鋼鉄生産量を6000万トンを達成する高い目標が提起され、重工業を主とすることが求められ、120の大型プロジェクト、中に22の超大型プロジェクトを含む120の大型プロジェクトが1978年の基礎建設投資を急増をあおり、国力を顧みず盲目的に外国を引き込み規模を拡大させた。1978年には経済建設に最初のバブル(冒進)が出現し、基礎投資は前半年比50%増加した。
 薛暮橋は四人組粉砕後、主要な精力を20年余りのわたった「左傾」のあやまり、とくに経済政策上の誤りの批判に置いた。一連の広範囲かつ深い調査研究のあと、薛暮橋は深く感じるに至った。「林彪と四人組の罪業を暴露批判するだけでは十分でない。過去20年の「左」傾の誤りが正されねばならない、そうでなければ、わが国社会主義現代化は正しい(正確な)道を進むことはできない」と。
 五届全国人大第一次会議(1978年3月開催 訳者補充)は国民経済発展10年計画を可決した。薛暮橋は当時中央のいくつかのやり方に同意できなかった。薛暮橋の当時の助手吳凱泰は当時を思い出して、当時薛暮橋は彼とこの計画を議論してつぎのように言った。「これは洋躍進となっている。鋼鉄生産量を1985年に一挙に6000万トンに達せるという、何の根拠もない(憑空)6000万トン、宝山製鋼(宝鋼)をいくつつくるつもりなのか?」彼はこの種の成果を急ぎ過ぎる指導思想がまた現れたと感じた。当時20年あまり続いた「左」の誤りは、まだ公開批判を受けてなかった。誰もが(大家)誤っていたと感じていたが、あえて言う人はいなかった。そこでこのような指示が文書で下達されると、多くの人はみなに注意を払って(照着)仕事をするものの、まじめに考えて誤っているという認識に達する人は少なく、あえて(意見を)言う人は本当に少なかった。薛老人が自身目覚める(自己確實)かあるいは思想闘争を通してか、一体言わないでか?薛暮橋の娘の薛小和は思い出を語っている。「会議が終わり家に戻ってから、彼は突然泣き始めた。私は、パパどうしたの?と尋ねた。彼は言った、現在国民経済はすでに崩壊のふちにある。国家計画委員会の指導者が全国人民大会に向けて作成した報告、は依然として評価(分數分物)の数字に改革を考えないということが混ざっている(陷在)。彼は泣いたのはあまりに突然だった。手で机をたたきながら(敲着扶手)。私の父は忍耐にたけた人だが、それがこのように激しく泣くまでになった。私は思うに彼は耐えられないところに至っていたのだ。」

2.中央に上書し、直接得失を述べる
  薛暮橋は何度も考えた上で、中央に直言(上書)し、自身の意見を吐露した(傾訴)。薛暮橋は思い出して言う。「20年あまり我々の絶対多数の同志特にその指導幹部は、「左」の誤りが多少ある、深い浅いはあり、悟るのに早い遅いはあるが、しかしそれがないものはない。少数の同志は認識が少しはやかった。しかし思うだけで恐ろしく(心有餘悸)、あえて話さなかった。このタブーを破るのは容易なことではない。」1978年4月18日薛暮橋は鄧小平と李先念同志に手紙を書き、「もし中央に責任のある同志が話しをしなければ、このタブーを破ることは困難だと」提起した。
 この手紙は主要には3つの問題を書いたものだった。
 第一に、農の軽重比例といかに農業をおこなうべきかについて。薛暮橋は、農業発展の緩慢と農民生活の困難状況を招いた主要原因は、「人民公社を進めたことのほか、一連の過度に左傾した政策を実行し、農民の集団経済への積極性に損害を与えたことにある」と考えた。彼は「とくに重要であるのは農産品の買上げ価格を引き上げて、農民の生活を改善すること」だと考えた。彼は「農業機械化に賛成した。しかし農業機械化の経済的効果と利益を高めるためには、機械化による増産増収が確保されるべきであるとして、一気に進むこと(一哄而上)には賛成しなかった。
 第二に、総合平衡と経済管理体制について。薛暮橋は新たな躍進の形勢において、中央建設のプロジェクトの目的範囲が、ますます大きくなり、地方工業、社辦工業はすべて多いに加速された。万馬が全力で走ろうとしている、このことに、彼は疑問をだした。これは現在既に存在する不均衡状態が継続拡大するのではないか。彼は、長期の企画のなかで、とくに総合平衡政策が必要であり、各部門間の不均衡は日ましに縮小されるべきで継続拡大されるべきではないと主張した。
 第三に歴史経験の総括問題。かれは新たな建設の高まりを迎えるためには、過去28年の経験教訓をまじめに総括すること必要だとしている。彼は「もしも中央に責任のある同志が話さなければ、このタブーをやぶることはむつかしい」「私は提出したこの問題、予測は、同志から「あなた方が指示を与えることを希望した(=指導者に指示を求めたもの)」と批判された。
 薛暮橋の当時の助手吳凱泰はつぎのように回顧する。「のちに人は薛老がタブーに入ったことを知った。ある一時来た同志はすぐに公言した。私は参加しないよ。彼は明らかに危険を冒そうとしなかった。」「彼にはこの誤りの歴史、これまでの過程、いかに犯されたか、どのような問題かはとてもはっきりしていた。それゆえ、かれは躊躇なく、人民に対し党に対し、申し訳ないというほかなかった。」
 この手紙が出されて間もなく、『光明日報』は「実践こそ真理の唯一の基準(標準)である」との評論員の文章を発表した。(これは)真理の標準に関するもので、実際上は党の思想路線に対する討論が、全国で逐次展開された。1978年12月、十一届三中全会が招集され、会議は「文化大革命」中とその以前の「左傾」の誤りを全面的に正すことからはじまり、国民経済の重大比例厳重損失を解決し農業発展を加速する要求を提起した。

(3.社会主義経済問題研究の刊行)
 薛暮橋は鼓舞を受け、タブーを破る決心をした。彼は20年の経験教訓を総括し、左傾の誤りを批判する(ことにしたが)、二言三言は説明を明確にするに十分でないことが明らかになり、体系的な論著が必要となった。1978年10月彼は数人の助手を引き連れて外地で「中国社会主義問題研究」の一書の出版に専心することになった。1980年初め「参考消息」は『日本経済新聞』
から一筋の情報を転載した。「中国では一冊の本が全北京中走り回っても買うことがむつかしい。それは薛暮橋が書いた『中国社会主義経済問題研究』という本である。北京の各経済機関、会社そして各国大使館もすべて買いたいと思うが同じく買うことができない」
 その年のうちに古希の75歳を迎える薛暮橋は、毎日8時間机に向かい、3ケ月ひたすら書いて初稿を得た。以後2度にわたり書面で意見を求め書き直しを経て、(1979年)8月に最終原稿を得て、年末に出版公開発行となった。
 本書の出版は少し経ってからになるが(偏後)、1979年初めから11月までの間に(薛暮橋回憶錄p.396によれば1979年2月に)、彼は中央理論務虛会議で、「実践経験から20年余りの経済工作を回顧する」と題した書面発言を行った。この報告は中央の一部の同志の許しを得て中央党校の『理論動態』上に発表された。このほか薛暮橋はいくつかの会議と地区で数回の報告を行い、(出版前に)前もって(提前)この本の基本精神を踏まえた宣伝を行った。
 本書は具体的かつ実際的に当時多くの同志に不鮮明であった経済建設の曲折や痛ましい教訓を説明し、生産力発展上成果を急ぎ過ぎること、盲目的に実際に合わない高速度を追求すること、国民経済の比例協調と安定した発展を破壊する誤りを批判し、また生産関係処理での過渡を急ぎ過ぎること、盲目的に「一大二公」(人民公社の規模が大きいほど、公有化の程度が高いほど良いとされたことを指す。訳者注記)を追求すること、公有制一色から行政指令性経済管理体制とすることを、批判している。本書の全体としての主要結論は、経済工作は客観経済規律を尊重せねばならない、国民経済の調整を進めるには、併せて経済体制の改革を探索し段階を追って進めねばならない、ということである。
 本書は薛暮橋が文革収束後、熱い思いで書き上げた心血の作品であり、わが国経済体制改革と正確な発展方針にとり啓蒙教材であり、当時の経済調整と体制改革を推し進めるものとなった。「20年余りの経済工作は彼が自身経験したことである。批判は系統的に尽くされており多くの20年余り左傾の誤りにあった人はこれを読み、深く信服した」とは吳凱泰の記憶である。
 『中国社会主義経済問題研究』は1979年12月に出版された。3年間の総販売量は1000万冊ちかい。同時に日本語、英語、フランス語、スペイン語の4つの言語でも出版された。(以下省略)

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