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2.8 劉少奇の悲劇 1951-1962

 写真は左が陳雲、右が劉少奇である。杜潤生の劉少奇についての記述は、参考になるが重要な1962年について簡略すぎて事実を見るに不十分である。そこで《劉少奇在建國后20年》から1962年1月の7000人大会から同年7月の北戴河会議までの経緯部分を以下の下半分に引用しておく。1962年という年は大躍進の失敗が明らかとなり毛沢東を権力から引きずりおろす言わば最後の機会だったが、結局そのようなことは誰も起こさなかった。他方で毛沢東は、集団経済=社会主義経済の優位性に党幹部が懐疑的であることに気が付き、大衆を動員して反撃を始めた時でもある。それが結局は暴力を肯定し、文化をも否定する「文化大革命」につながってゆく。劉少奇は、毛沢東の発言から乖離しないように努めていたが、毛沢東の猜疑心から免れることができず、文革中に悲惨な死を迎える。

杜潤生  農村漁村文化協会訳pp.105-110
 王明の右傾日和見主義を排除する点で、劉少奇と毛沢東が一致し、延安で毛沢東を領袖の位置につけることを、劉少奇が最初に提起したとする。

 1951年の山西省が初級合作社の試験実施を提起した問題では劉少奇は今は新民主主義であるとして空想社会主義と批判した。杜潤生は空想社会主義という言葉が行き過ぎだが、新民主主義路線の堅持は正しかったとしている。

 これに対して毛沢東は合作社の動きを1951年から支持していたので両者の乖離は始まっている。しかし1953年には劉少奇も合作社問題で自己批判をして毛沢東に歩調を合わせている。

 1955年4月からの毛沢東と農村工作部との対立では、6月の中央政治局会議以降、劉少奇は毛沢東支持の立場をとった。ここでも劉少奇は自身の立場を修正したことになる。

 しかし杜潤生によると生産関係と生産力との対応をみるという思想を劉少奇は堅持しており第八回党大会1956年9月の政治報告は 現段階の主要な矛盾は、人民の経済、文化の迅速な発展に対する需要と現在の経済、文化が人民の需要を満足せられない状況との矛盾であり、実質的には、生産力の発展がこの要求を満足させられない矛盾であるとした 農村漁村文化協会訳p.109
これに対し、第八回大会第二回会議で(1956年11月)、毛沢東は第八回党大会報告の主要矛盾に対する表現は誤りであり、現段階の主要矛盾はブルジョア階級とプロレタリア階級との間の矛盾であると提起した。農村漁村文化協会訳p.109

(ここまでの記述は参考になった。とくに劉少奇がなお生産力決定論であったことは重要な指摘である。また1956年11月の第八回大会第二回会議が重要な分岐であることがわかる。しかしこの後の杜潤生の記述は異様に簡略である。)

(同じ1956年に周恩来、陳雲さらに劉少奇が、盲進反対で声をそろえた。この動きは、翌年、反右派闘争によってかき消される。(このとき主要な幹部間で、意見の一致がありながら、毛沢東の主張をすでに押さえられなかった。東欧でたとえばハンガリーで1956年秋に大規模な暴動が起きたことが、毛沢東が反右派闘争に事態が転換する背景とされている。)この点以下を見よ。福光寛「中国経済の過去と現在ー市場化に向けた議論の生成と展開」『立命館経済学』64巻5号, 2016年3月, 194-222。)

(大躍進の「失敗」のあと1962年1月のいわゆる7000人会議が開かれた。それから劉少奇が主宰して開かれた西楼会議。いずれも毛沢東を抑える機会だった。しかし劉少奇は、7000人会議では毛沢東の責任を十分追及しなかった。あるいはできなかったのか。また西楼会議は当面の対策を話し合った会議にすぎないのだが、その後の毛沢東による西楼会議=黒暗風批判に屈している。なぜ劉少奇は、毛沢東の階級闘争をいたずらに強調する路線を抑えることができなかったのか。そこまで毛沢東の神格化が進んでいたのか?いろいろ疑問が残る)

(7000人会議のあと7月初旬まで、毛沢東はおよそ半年間、北京を離れている。その目的を私は全国で自分の側に誰が付くかを確認していたと解釈している。西楼会議は1962年2月21日 毛沢東と林彪を除く政治局常務委員書記など経済部門の責任者16人が集まった劉少奇主宰の会議を指す。ここで陳雲が農業生産の落ち込みの中、都市人口を削減する必要があることなどを話している。このあと陳雲も上海で療養で不在。1962年5月7日から11日 劉少奇主宰で政治局拡大会議が開かれた。毛沢東,林彪、陳雲はいないが出席は105名。都市人口を2000万減らすことなどが議論されている。これは五月会議と呼ばれる。
 ところで当時、農業生産を回復させる方策として、各戸責任制(あるいは生産請負制):包産到戸が議論されていた。この議論の経緯は複雑である。農民の間ではこの方法を望む声があり、生産性を回復するために復活を望む意見は絶えなかった。1961年3月に安徽省第一書記の曽希聖はこの問題で毛沢東の意見を求めたが明確な意見は示されず、返った返事は試せばよい、というものだった。その結果、安徽省を始め試行する地域が広がった。しかしこのように中央を同意を得た行為だったが、7000人大会で曽希聖は中央が認めた試験の範囲を超えて、包産到戸を広げたとして問題視されて書記を解職された。
 興味深いのは7000人大会の後、毛沢東は秘書の田家英に湖南省の農村に実情調査にゆかしていることだ。ところが調査の結果、包産到戸の有効性は明らかになると、毛沢東はその報告に大変不機嫌になったとされる。同様の調査はいろいろ行われた。そして鄧子恢が、集団所有制を確固とするためにも農民に少し自由と、少し私有を与えるべきだと毛沢東、劉少奇、鄧小平に手紙を書いたのは5月24日のこと。鄧小平が、安徽省の同志が言う黒猫であれ白猫であれ、ネズミを捕まえることのできる猫がよい猫だという話には道理がある、といったのは6月の下旬のこと。
 7月初め陳雲が北京にもどってきた毛沢東に面会を求め、包産到戸には生産の積極性を促す効果があることを話した。毛沢東はその場では意見を言わなかったが、翌日、集団経済を瓦解させかねない提案だとして激怒。それを伝え聞いた陳雲は、その後の北戴河会議には体調不良として欠席を届け出たとされる。
  このあとの7月17日 鄧子恢は毛沢東に報告し、責任田や包産到戸は毛沢東が批判する単独経営(單幹)ではなく、農業生産力を発展させるものだということを話したが、毛沢東はただ聞くだけで一言も発言しなかったとされる。なお、毛沢東が農村工作部を廃絶するのはこの年の11月である。
 このあと7月25日から8月24日に開かれた北戴河会議。ここで毛沢東は安徽省で行われているのは、単独経営(單幹)で資本主義の道を歩むものだと批判。包産到戸を徹底して排撃する自身の態度を鮮明にしている。以上の記述は以下による《劉少奇在建國后20年》遼寧人民出版社 2011年 pp.282-308)

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