見出し画像

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその
影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き、胡耀邦は席上、重大な政治原則上の失敗(失误)を自己批判した(检讨了)。会議は胡耀邦に対して厳粛に同志的批判(批評)を行い、同時にまた実際に照らして(如实地)工作中の功績(成績)を評価(肯定)した。会議は中央委員会総書記の職務を辞去したいとの彼の願い(請求)を受け入れることに同意し、中央政治局委員、政治局常務委員の職務は保留継続とした。趙紫陽が代理総書記に推薦された。今回の政治局拡大会議の決定は、のちに同年10月開催の党の十二届七中全会で確認された。」

 総書記交代のきっかけになった、学生運動とはどういうものだったのか。また総書記の交代の理由は、果たしてこの学生運動だけだろうか。いろいろな疑問が浮かぶ。王丹『中華人民共和国史十五講 二版』聯經2016年6月p.277の記述が比較的詳しいが、学生たちの具体的な要求内容や、全国にどこまで波及したか、など肝心な情報が書かれていない。「1986年末に各地では人民代表選挙が進み、民間では政治への参加を求める声が高まっていた。12月初め、安徽合肥の中国科技大学構内に「科技大の選挙権者への手紙」と題した壁新聞が張り出された。その中には「人民代表大会は少数の人のゴム印である」、人民に「本当の民主のための闘争を」呼びかける(召喚)と書かれていた。四日夜、科技大学副校長の方励之は校内で講演し、「民主は上から下に与えられるものではなく、自ら争って勝ち取るものだ」と述べた。科技大の学生が翌日合肥市でデモ行進した。この学生運動は直ぐに上海と北京に伝わり、全国を震動させた。人々の民主政治の熱情はまさに高まっていた。しかしこのような要求は再び当局に衝撃を与えた。十二月三十日、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽、萬里、胡啓立、李鵬、何東昌らを招集し、学生運動に講話を発表した。「専制手段は、話す必要もなく、必要な時に使用する」と。その後、胡耀邦は辞職を迫られ、当局は「資産階級自由化反対運動」を発動した。方励之、王若望、劉賓雁は党籍を解除された。民間の民主への渇望と、党内保守派の頑迷な立場の間の対立は深まった。(しかし)中国民間の民主への期待は打ち砕かれてしまうことなく、反対にますます強くなった。」


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp