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北島/曹一凡/維一編《暴風雨的記憶》2012/03

  正式のタイトルは北島/曹一凡/維一編「暴風雨的記憶 1965-1970年的北京四中」生活・読書・報知三聯書店2012年。北京四中卒業生の回顧録(なお写真は名古屋駅前ビル 2019年11月17日夕刻)。ただ名前を連ねる人たちは皆社会的に活躍している著名人が多い。北京四中というのが、北京のエリートの集まるところだったことが分かる。しかしその四中も文化大革命の惨劇は、避けることはできなかった。掲載された文章はいずれも文革の実相を示す点で興味深いがここでは、文革期の惨状をかなり明らかにしている、白羽(バイ・ユウ)という人の文章の一節を引用する。白羽は1968年初めに13歳で北京四中に進学している。すでに文革は始まっていたが(1966年5月に始められたとの解釈が多い)、白羽は進学している。その後1970年、学窓を離れ、小学校教師を務めている。そして1977年北京放送(廣播)学院に進学。卒業後、中央人民放送局(廣播電臺)に番組制作スタッフとして努めた後、北京映画学院で青年映画の編集,製作監督などに従事している。

p.366   1968年上半期は暫時平静であった。すぐに「階級の隊列(隊伍)を整える」(運動)により、多くの教師が「階級(として)敵人」とされた。
 私の記憶には、幾つかの忘れがたい場面がある。校長室に突入した学生たちが、楊濱(ヤン・ビン)校長になぜ修正主義教育路線を行うのかと質問し、彼女が真っ青になりながら一言も返さなかったこと。劉鉄嶺(リウ・ティエリン)が全校大会で自身の「反動日記」の自己批判を行った態度が穏やかだったこと。一人の中年の女性教師がナイフ(剪刀)で自身の喉を切り、講堂の後ろの路地(夾道)で無残に亡くなったこと。少し前には演台で毛沢東の詩詞を演唱した音楽教師曹會澂(ツアオ・ホイチェン)が破れた仕事着を着て、暗い表情で石の壁を積んでいたこと。あるとき我々が長安街でデモをしたとき、「劉少奇(リウ・シャオチー)を打倒せよ」を(わざと)誤って「(語学教師の)廖錫瑞(リアオ・シールイ)を打倒せよ」と叫んで、別の学校のデモ隊を困らせたこと(讓莫名其妙)。(階級異分子:階級異己分子の20人余りの中老年教師が)牛小屋(牛棚)に入れられ、紅衛兵将兵たちによって毎日見張られ、食事、起居、労働、学習、批判闘争、「夜の報告をすぐに提出せよ」(の日々にあったこと)・・・。
 間もなく一部の学生もまた迫害にあった。我々は(劉少奇の子供の)劉源源(リウ・ヤンヤン)のクラスの批判会を傍聴した。劉源源は演台のそばに立ち、向けられる発言や言葉にほとんど反応しなかった(無動於衷)。後に彼が乱暴された(他挨了打)と聞いたが、紅衛兵団長張傑(チャン・チエ)(その父親は総参軍械部のある処長である)は関係から(通過關係)彼を白洋淀に隠した(藏)。八届十二中全会がまさに終わるところで、軍代表から全校に、周恩来(チョウ・エンライ)が劉源源兄弟姉妹数人を探しあてて中南海で話し、君たちはp.367  なお「よく教育された子供でありうる(可以教育好的子女)」と話したと伝達された。われわれはまた(彭真の子の)傳亮(チョアン・リアン)、(薄一波 ボー・イーボーの子の)薄熙成(ボー・シーチョン   なお薄熙来は薄熙成の2年上で北京四中の卒業生。遠藤誉さんによれば、1967年12月下旬に薄熙来、薄熙成兄弟は投獄され、薄熙来は1972年まで収監された。しかし投獄に先立って薄熙来は紅衛兵として、乱暴の限りをつくし殺人を犯したとする。きっかけは1966年9月に父親の薄一波を含む61人をターゲットにした「61人叛徒集団案」に関する報告書が公開され、1967年3月からは薄一波らに対する批判闘争が始まったことだった。薄熙来は薄一波に対する批判大会において、先頭に立って薄一波を攻撃し暴行を加えたとのこと。遠藤誉『チャイナ・ジャッジ』朝日新聞出版2012年,  28-34)、(孔原の子の)孔丹(コン・ダン)などの幹部子弟に批判闘争する全校大会に参加した。彼らの「罪名」は「「文革」に対する不満」であり一度に二三十人が一律、噴気式だった。
 私にはなお二人の校友であり隣人がいて、一人が(北影の監督陳懐皚の子の)映画監督の陳凱歌(チェン・カイグ)で1966年に数人の紅衛兵により找家(家の中に旧時代のものを残すことがいけないとして荒らされることを)されて、罰として壁に面して立たされた。もう一人は同年齢同学の劉平梨(リウ・ピンリー)で彼の父親は昔の紅軍、八一厰(人民解放軍が1952年に創設した八一電影製片廠のこと)の創始者のひとり、母親は三八式(意味は今のところ不明)幹部で、北影の医者だった。劉平梨は江青の三四十年代の逸話をある好意ある同学に話し、結果として暴露されて(被揭發出來)反動学生とされ、全校で批判闘争と労働改造をされた。もっともいやだったのは学校が私を代表学生として批判発言することを指令したことで、私はしたくなかったが、教師は言った。「君は劉平梨と毛主席のどちらが好き(親)なんだ。」そこで(毛主席に)敬意(遵命)をあらわすほかなかった。演台に上がる前に、そこに立っていた劉平梨は笑ってむにゃむにゃと(笑眯眯)僕にいった。「早く言ってしまえ、そうすりゃ俺が立ってる時間が短くなる。」彼は一貫して楽天派で、僕を怒らせたことはなく、今もなお僕の良い友人だ。

   (だが)心を最も揺り動かされたのは(最爲驚心動魄的是)趙京興(チャオ・チンシン)の件である。初級3年の学生趙京興は学校内で大字報「私はなぜ上山下郷(農村への下放をこのように表現した)に行かないか?」を張り出し、貴重な青年時代を利用して、多くの書物を十分に読む必要があると、(そして)歴史が彼に与えた使命は将来完成されると述べた。私自身は上山下郷に対してロマンチックな印象しかなかったが、趙京興の選択を心から理解し賛同した。まず私は若い時はたくさん本を読むべきだと考える。当時のp.368  社会では実践を読書より重視し、「知識が多いほど反動的だとさえ」(いったものだが)。また私は同じ使命感を感じる。「天が私というものに生を与えたのは、私が何かの役に立つからだ(天生我材必有用)。」
   1970年三反(反党、反社会主義、反毛沢東思想を指す)に打撃を与えよ(一打三反)(運動)のとき、公安局はユ・ルオク(遇羅克)を逮捕し、彼の親密な友人で同案犯であるとして、趙京興を学校の「牛小屋」に押し込めた。ちょうど私は牛小屋を管理していただけでなく、学校の案件処理組(專案組)に参加し、彼への批判を担当していた。つまり北京市のどこかで趙京興批判闘争が行われるとき、私は一緒に登壇して批判発言を行う必要があった。こうして私は趙京興と朝夕知り合うことになり、彼について深く理解したのである。
 趙京興は当時十七八歳。すでに十分に学んだ人であり、文学、歴史、哲学、政治、経済、知らないことはなかった。彼はユ・ルオクの発表を助けただけでなく、自らも八万字の「哲学批判」そして三十万字の「社会主義経済問題に関する対話」を書いていた。彼はまた1966年以来の兩報一刊(人民日報、解放軍報、紅旗の3つの新聞雑誌)の社説について逐一批判の文章を書いた。
 彼は日記のとびらに「カール(卡爾)、努力せよ」と自身を励ます言葉を書いた。彼は押し込められた小屋の壁に「魯迅の人品は意思強固であった(魯迅的骨頭是最硬的)」との条幅を掲げた。私は常に趙京興に各種の学術問題で教えを請うた。彼は喜んで教え(欣然指點),堂々と話し(侃侃而談),私が得ることは深かった(讓我受益匪淺)。時には批判闘争から戻ってきて、趙京興は今日の批判原稿はこうだったと述べ、あの箇所はよく批判できている、あの箇所はこのように批判した方がもっと深くなる、と私に話した。私はつまり彼の指導のもとに、彼の発言の批判をまとめたのだ。
 間もなく運動は拡大し、ユ・ルオクは銃殺刑になり、趙京興に対する專案組の音信は絶たれた。公安機関による尋問が必要だと。ある夜待っていると、3人の中年の制服を着ていない警察官が現れた。彼らは謝富治の命令できたといい、戸口を入ると厳しく言い放った(厲聲喝道)。
p.369 「立て。お前が趙京興か?」趙京興は立ちながらゆっくりと返した。「私が趙京興です」。警察が聞いた。「お前は自身の言動に後悔(反悔)しているか?」「後悔していません!」。警察は言った:「お前を逮捕する」。二人が趙京興に手錠をかけ、学校の入口に停車していた黒色の高級吉姆轎車に押し込んで、悠々と去っていった。このあと趙京興は警察に身柄を置いたまま批判闘争を受け続け、私は彼の影のように、そのたびに彼とともに登壇して発言した。しかし彼は一度も私を見ることはなく、また私も彼と言葉を交わすことはなかった。この類の批判闘争会は以前に比べ一項目増えた。それは会の前後、批判する人々が彼を残酷に殴る(毒打他)とうもの。拳で殴り足でけり耳をぶつなど。趙京興はいつも黙ってそれに耐えた。最後に彼は「現行反革命罪」で30年の徒刑(懲役のこと)に処せられた。・・・
 (19)70年代の末の夏の夕方も深まったころ、私は故宮筒子の川邊で趙京興がちょうど3人の友人と散歩し、楽しく語らっている(談笑風生)のを見た。なんども挨拶しようと思いしかしとどまったのは、今に至るも残念なことであった。(なお本書には趙京興の寄稿も収められている。趙京興は1969年に入獄。3年の収監。その後1973年からは工人として働いた。1980年から「中国社会科学」雑誌の編集にあたり、1986年からは中国社会科学院数量経済與技術研究所で研究工作に従事している。)

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