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反右派闘争と大躍進の発動 1957-58

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

  1957年6月8日に人民日報は社説「這是爲什麽?」を発表。これが反右派闘争開始の合図になった(写真は吉祥寺経蔵扉木彫り絵 経蔵は文化元年1804年の再建とされる)。
 1957年9月20日から10月9日。北京で八届三中全会が開かれた。この会議で中国共産党は無産階級と資産階級の間の矛盾、社会主義道路と資本主義道路の矛盾が現段階の主要矛盾だと、八回大会の主要矛盾の判断を変更した。これは重要な判断の変更で影響が大きかった。 
 1957年11月。毛沢東訪ソ。そこでフルシチョフが提起した15年に米国を抜くという目標に対して、毛沢東は各国の党代表を前に、我々(中国)は15年で英国を超える、鋼鉄の生産量を現在420万トンを今後10年で3500万トンないし4000万トンにひきあげると具体的目標値を掲げた。
 1958年1月1日の人民日報は、今後15年以内に鋼鉄ほか重要な工業製品で英国を抜き、さらに20年ないし30年の間には経済上、米国を抜くとした。
 1958年1月11日から21日。南寧会議で中共中央工作会議が開かれ、ここで毛沢東は反冒進の言動は、人々の熱情に冷や水をかけるものだと批判した。とくに1956年6月に劉少奇が書かせたとされる人民日報社説「要反對保守主義,也要反對急躁冒進情緒」に対するこれまで抑えていた怒りを爆発させて、この社説は右傾保守だと批判した。なおこの時、たまたま陳雲は欠席している。
 1958年3月8日からは成都で中共中央により関連部門各省市区党委員会第一書記を集めた会議が開かれた。周恩来、陳雲も出席したこの会議。再び毛沢東は反冒進批判を行った。周恩来、陳雲はそれぞれ自身が行った反冒進(急ぎ過ぎることを批判すること)の誤りについて自己批判した。
 このような最高幹部による自己批判、毛沢東による反冒進批判は1958年5月5日から23日まで北京で開かれた中国共産党第八次全国代表大会第二次会議でも繰り返された。背景に大衆的な社会主義建設の熱気があったことも事実だと考えられるが、結果として、反冒進の議論は抑えられ、冷静な判断力を中国政府は失うことになる。毛沢東は6月22日、英国を超えることは15年といわず7年、いや鋼鉄については2-3年で可能だ、と激をとばしている。そして8月の北戴河会議。社会主義化、大躍進を急ぐという熱気が国を包み続けた。(全国民がこぞって鋼鉄生産に励むとか、あらゆる農村に人民公社を設立するなど方針が開始されるのは1958年夏のことである。)
 (なお反冒進批判の前段と考えられているのが、1955年に起きた毛沢東と鄧子恢との対立である。このとき毛沢東は鄧子恢が合作化のスピードついて慎重な姿勢を続けたことに立腹。55年7月末には鄧子恢を足の短い女(小脚女人)のようにヨチヨチ歩いていると批判した。また1956年6月から11月。反冒進の議論が続いた。この展開に実は毛沢東は不満を抱えていたことが、1956年6月に人民日報に掲載された社説批判の形で、のちに1958年1月になってから表面化する。)

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#諏訪山吉祥寺

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