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中ソ緊張激化と廬山会議 1958-60

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

 1956年にフルシチョフが行ったスターリン批判。その後起きたハンガリー事件に際して、ソ連が中国共産党の意見を求めたことは先に述べた。しかし両党の関係はその後次第に悪化した。
 1958年にはソ連が中国領内にレーダー基地を設けることとと共同艦隊構想を示したことに、これは軍事的に支配するものだとして中国側は反発した。8月、中国が台湾の金門島を砲撃するとこれを支持せずに批判。さらに翌年1959年8月に起きた、インドと中国の国境紛争ではインドを支持する姿勢を示し、両者の関係はさらに悪化した。
 1960年4月に、中国共産党がその理論誌『紅旗』において、暗にフルシチョフを現代修正主義として批判すると、両者の対立はエスカレートし、7月にソ連は一方的に、中国に送り込んでいたすべての専門家の召喚と、中国への経済技術協力の廃止を決めた。
 このようなソ連との関係悪化は、中国が反右派闘争、大躍進、さらに廬山会議へと突き進む伏線となっている。
 1958年3月の成都会議で劉少奇は、主席とは、社会主義建設を進める速度について、考え方で距離があったと自己批判した。
 1958年5月の中共八大二次会議で、毛沢東は再び反冒進を批判。会議は社会主義建設を急ぐ総路線を決議している。
 1958年後半に入ると、「大躍進」政策展開に伴う国内の混乱が目につくようになった。
 1959年4月18日には第二届全国人民代表大会第一次会議が開幕した。会期は28日まで。27日に行われた選挙で劉少奇は中華人民共和国主席、宋慶齢、董必武は副主席、朱徳は全国人代常任委員会委員長に選出された。
 廬山での政治局拡大会議(いわゆる廬山会議)は7月3日からはじまった。彭徳懐国防部長(政治局委員)が毛沢東宛て書簡を提出したのは7月14日。書簡は大躍進の成果も指摘しつつ、問題として小資産階級的狂熱、主観主義的「左」の誤りがみられるなどと批判している。毛沢東はこれを印刷して参加者に参考として配布している。19日―20日、黄克誠(解放軍参謀総長)、張聞天(外交部常務副部長 政治局候補委員)、周小舟(湖南省第一書記)がそれぞれの会合で彭徳懐の意見に賛成を表明した。この動きを右派が歓迎するものと決めつける毛沢東の講話で、会議が一挙に緊張したのは7月23日午後である。その後31日から8月1日に開かれた政治局常任委員会でも毛沢東は、彭徳懐批判を継続。毛沢東の提案で、2日から16日に中共八届八中全会が開かれ、会議では「彭徳懐、黄克誠、張聞天、周小舟反党集団」に対する闘争(批判集会)が行われた。翌17日、彭徳懐に代えて林彪を国防部長とすることが決定されている。
 一つの疑問は、劉少奇や周恩来などが、なぜ彭徳懐に同調して毛沢東をけん制する方向に動かなかったかである。様々な解釈が可能だが、劉少奇や周恩来などは、毛沢東とともに政権中枢(政治局常務委員)であるので、毛沢東と意見の違いがあるにしても、彭徳懐など非常務委員など外部の意見を聞く立場にあったと考えられる(党の中の最高の組織は政治局常務委員会。この廬山会議時の構成は毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、林彪、鄧小平の7名である。)。また今一つは、中枢にあるものが、異なる意見を言う場所をどこにするかと考えると、もう少し閉ざされた場所(常務委員会なり、毛沢東との対面において)でということになり、拡大会議では中枢として分裂した意見の表明を避ける判断もあるだろう。
 ところでこの1959年は建国10周年にあたり、1959年9月から10月にかけては、記念活動が断続的に続いた(1959年9月。人民大会堂が落成している。 また大慶の油田が発見されたのも同時期である)。記念活動が終わったところで、劉少奇は肩周炎の治療のため、海南島での休暇が認められた。そこで劉少奇は、毛沢東から学習を命じられていたソ連の『政治経済学教科書 第三版』を持ち込み、学習班を海南島で組織した。午前中は読書、午後は討論という形で20日余りを要して、学習が終わった。このように国家主席を中心に多くの人が一緒に学習会をした(広東省第一書記陶鋳 劉少奇夫人の王光美のほか 秘書・医師・看護師・警備員など周辺の人がみな参加したとされる)ということ。これも中国という国のありようを示したことではあった。このあと、杭州での中央工作会議に出席するよう連絡がきて海南島を離れたのは11月24日。ただその後も、この教科書の学習は続けられたとされる。中国での経験と教科書の学習との結合が求められたわけでが、国造りに中国に指導者が生真面目に取り組んでいたとはいえる。
 『政治経済学教科書』の学習がなぜ重要だったのか。問題は社会主義経済というものをどのように理解するかである。社会主義初級段階が相当長期間を要すること、社会主義社会においても、なお商品が存在すること、労働力もなお商品の形式をとること、剰余価値の分配は労働量に応じてとせざるを得ないことなど、このときの劉少奇の発言は、社会主義経済の基本にかかわるものが多かったとされる。この学習会には、王学文(1895-1985   京都帝大出身 中宣部に所属、資本論解釈に詳しい)、薛暮橋(1904-2005  経済学は独学ながら学究として知られ統計局長に就任)が中共中央から招聘されたことも重要かもしれない。国のトップが、養生のためもあるが1ケ月弱の時間を使って、社会主義経済とはなにかについて、腹を割って議論した。その事実が重要であるように考えられる。
 そして翌1960年前半。劉少奇は一貫して全国各地の視察調査を繰り返している。データははっきりしていた。糧食・副食品の生産が急減していた。栄養不足による病気、死亡が現われていた。しかし彭徳懐の事件の影響で人々は本当のことをあえて語らなくなっていた。
 劉少奇が正式に大躍進の政策の転換を明らかにするのは、1960年6月18日の上海で行われた、中央政治局拡大会議最終日(この会議にはなお大躍進継続の数値も討議対象として提出された)。この日、農業生産に力を入れることと、あまりに多くの基本建設することはない、と彼は宣言した。基本建設を圧縮し、今後数年は農業生産を第一とするという方針はその後、7月から8月にかけて開催された、北戴河での工作会議でも繰り返された。ようやく「大躍進」の呪縛から、中国は脱出することになる。ただプロセスを見ていて歯がゆいのは、状況を把握するのに指導者たちが、全国を地道に回って、情報を集めることをくりかえし、結果として決定が遅くなっていることだ。
 このように経済調整に入った決定的局面で、ソ連との関係は決定的に悪化する。1960年7月、ソ連は送り込んでいた専門家の一斉帰国、すべての経済技術協力の廃止を一方的に決定。両国そしてそれぞれの共産党間の関係は、決定的に悪化したのである。

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