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馬寅初と五四運動 (鄧加榮2006)

鄧加榮《我國經濟學泰斗  馬寅初》中國金融出版社2006年pp.25-26(写真は水道橋から神田川沿いに「お茶ノ水坂」をあがるところ。右手に見えるオブジェは神田上水の懸樋を示している。)

 p.25   過去においては官僚政客たちに支配(把持)されていた北京大学、多くの人により、この京城の最高学府は、官位を上がり(昇官)、入省(入部)、国会入りの階段(階梯)とされ、多くの教員は行政省庁(官府的門)に一方の足を置き、他方の足は官学の組織(官学衙門的門)に置いて、空いた時間に馬車に乗って学校に講義にくるのみであった。同時に彼らは学生たちを官位を上げ金儲けする(發財)道に引き入れていた。この低劣(悪劣)な雰囲気を取り除き、学校の教師と学生が品性を高め学に励むこと(敦品勵學)を奨励し、北京大学を本当の徳と才とをはぐくむ教育の聖地、学術の故郷とするため、1918年初め、蔡元培は北京大学に進徳会を発起組織した。進徳会に参加する人には、官僚にならない、金儲けをしない、社会の低劣な雰囲気や不良な嗜好に染まらない、ことの宣誓保証を求めた。1918年6月3日 全会員の民主選挙は、蔡元培、李大釗など六人を評議員に、(また)馬寅初,錢玄同,胡適,陳漢章など二十三人を風紀委員(糾察員)に推薦(推選)した。後に評議員と風紀委員の職責は分けがたいと考えられ、一律に評議員とされ、日常会務と《北京大学進徳会雑誌》の出版などの仕事を共同して担った。風紀委員の選挙において、馬寅初の得票数は最多であった。馬寅初はその学識,品徳と熱心なサービス精神で教員と学生の間で人々の希望の的であった。
p.26 1918年11月、第一次大戦が終わり、中国は参戦国として協約国の勝利の一部にあずかった。蔡元培は三日の休暇を決定し、提灯行列を挙行し、併せて連続3日の講演会を挙行した。講演に参加したのは、蔡元培,李大釗,馬寅初,陶孟和,胡適,李石曾,陳星農らであった。この講演会において李大釗は第一声の春雷を中国の大地にとどろかせ、中国歴史は《庶民の勝利》と呼ばれる時代によって画されると提起して、無産階級革命学説を勇敢に宣伝擁護(宣傳和捍衛)した。蔡元培もこの会において、誰にも分かる大声で(振聾發聵)講義《労働の神聖さ(勞工神聖)》を発表した。馬寅初の演題も《中国の希望は労働者にある》題したとても急進的(激進)なもので、「生産の発達を欲するなら、求めるばかりで威張る武人を除かねばならず、武人と労働者が併存する理由はない。武力を除くことができれば、生産と貯蓄の障碍を除ける。生産と貯蓄の障碍を除ければ、労働者は落ち着いて事にあたれる。ゆえに私はいう。中国の希望は労働者にあると。」
 1919年、気迫雄大な(轟轟烈烈的)”五四”運動が爆発した。北京大学はこの偉大な民主愛国運動の発祥地、震源地(策源地)であり、北大の舞台(紅樓)の中に中国革命前進道路のかがり火(火炬)が、まず赤々とともされたのである。北大があって、”五四”運動があった。逆に言えば、”五四”運動が生じたことで、あの有名な(響當當的)極めて斬新な(嶄新的)北大が生まれた。馬寅初はこの激烈な(如火如茶的)民主愛国運動の中に積極的に身を投じ、彼は学校内の多くの進歩的教授とともに、学生のデモ示威活動を熱烈に支持した。5月4日のその日、彼は何人かの進歩教授馬叙倫,沈尹默らとともに、北洋軍閥段祺瑞の門前に行き、逮捕拘留されたデモに参加した学生の釈放を要求した。その後、蔡元培校長は反動政府の学生運動鎮圧に抗議するため、憤然と校長職務を辞し、学校を去った。馬寅初はまたその他の進歩教授と連合し一緒に教育部に行き請願した、全員一致の(意思)表示として、もし蔡元培に学校に戻り復職することを(教育部として)求めていただけないのであれば、北大教員は「すぐに総辞職します」と。

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