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渡邊佐平「金融論」1954

 佐平さん(1903-1983)の金融論はこの岩波全書版①のほか、法政大学通信教育部で1973年に非売品として出されたもの②が手元に残る。いずれも名著だが、私自身が大学で金融論を講義しながら、直接教わり傾倒もした佐平さんを継承した金融論を展開できなかった。ただ佐平さんが金融史の古典を縦横に引用しつつ、金融の発展と理論の発展とをほぼパラレルな史的関係として記述しようとした意図は、いずれの本からも明瞭に読み取れる(写真は東京ドームシティの観覧車ビッグ・オー センターがないセンターレスという特殊構造。回転直径60m。最高度地上80m。2020年2月2日)。
 まず岩波全書版では、経済学で問題にされる信用を商品価値の実現が時間的に引き離された形態としてとらえ(①10)当初はそれは流通信用。やがて商人間の商業信用で用いられる信用証書の形式として、貨幣を支払え(為替手形)、貨幣を支払う(約束手形)、債務の承認(IOU)を説明し、手形の商業貨幣としての発展を論じている(①22-27)。
 これに対して、消費するための貨幣を必要とする人に対して、貨幣信用が生まれるとする。そこで生まれるのが利子である。資本主義社会以前の利子はしばしば高利になった。資本主義社会以前にも利子生み資本あるいは高利資本が存在することになった(①31-40)。前期的利子生み資本(②37)。
    高利貸付に対する非難は、当時の社会にあって、貨幣が貨幣として(つまり流通手段として 福光)機能していただけであったので、利子を請求することは不合理だったからだという。「利子否認の教えはそのときの社会の経済生活においても、妥当性をもっていた」(①49)。
 実質的に利子を徴収する巧妙な方法としては、無利子貸付としたうえで期限に返済できないときに賠償をなすという約定させるものがあった。賠償で取り立てるものはintereseであって利子usuraではないとした(①50-51;②39)。しかしやがて商業の活発化から、商人の側からも容認を求める議論がでて、さらに教会内部からもこれに応じる声がでて、利子禁止から高利禁止に法律も変化するようになった。17世紀末頃から、土地を担保に紙券を発行する銀行を設立する提案がいくつかなされたが、この土地の価値が不明な当時にあっては、これらの構想は現実的ではなかった(①62-63)。
   これに対して、貸付をしないという形で、帳簿上の貨幣を振り替える「振替銀行giro-bank」が中世において、ヴェニス(1584-88)、そしてアムステルダム(1609)に登場している。これらは貨幣の貸付を行わず、貨幣に代わる紙券の発行も行わず、利子率を引き下げる効果も期待されなかった。という点で信用制度による銀行ではなかった(①66-72)。預金額を超える振替請求:過振りをしてはならないと規定されたこと(②29)。
 信用制度としての銀行の歴史はイングランド銀行によって始まるが、前史として金匠goldsmithがいる。金匠はもともとは金銀細工匠。やがて金銀を預かり、貸し付けるようになった。国王が造幣局にあずかっていた貨幣を没収するといった行為をしたこと(1640年)で、国王や造幣局への信頼がおちたことが背景とされる。この金匠の預かり証が、人々の間に流通したことは銀行券の先駆になり、金匠の高利追求が、商人や新興の資本家に苦痛であったこと、さらに国王が財政の窮迫から国庫からの支払いを停止し(1672年)、金匠の方も払い出しを停止し金匠の信頼がゆらいだこと。こうしたことを背景に、政府財政の困難の切り抜け策としてイングランド銀行は設立された(1694年)(①80)。紙券の発行により利子率の引き下げを実現した(①87)。 
     イギリスにおいて利子禁止にかわる、高利制限は10%から始まり(1545年)、8%6%5%と下がり18世紀の5%が19世紀まで維持されたあと、1854年には高利制限自体が廃止されている(②40-41)。(今日からみて興味深いのは5%という数字の低さである。福光)
 銀行の紙券の流通は、一般の商業手形の流通を前提とする。信用制度としての銀行を特徴づけるもひとつの機能は、社会のあらゆる所有者から貨幣をあつめてきて、これを貸し付けることである。貨幣取扱業者のもとに商人たちの資本の一部である貨幣資本が、つねに流出入するようになると、多くの商人の資本が機能をつくすために実在を必要とする貨幣量は、その共同的な管理のおかげで相対的に縮小されることになった(①110-113)。 
 (このあとの議論の要点は、まず兌換銀行券について、銀行券の過剰発行を否定する銀行学派に対して、通貨学派は銀行も過剰発行しうるとして、金の流出入に伴い銀行券発行量を自動調節することを主張した。これは通貨学派は貨幣を流通手段の機能のみで理解しているから。銀行学派が銀行券の流通法則を明らかにした点は功績。しかし1844年のピール銀行法によりイングランド銀行が、発行部、銀行部二分割されたのは通貨学派の主張をうけたもの。イングランド銀行券の発行について、証券を担保とする保証発行fiduciary issue。正貨準備によるものを金属準備発行gold reserve issueと呼ぶ。保証準備を超えては金属準備が必要というのも通貨原理の核心を示す。制定後の3度の恐慌。47年、57年、66年。そのたびに発行規定を停止して限度外発行を認可する措置。したがって通貨原理の実験は失敗したといいうる。①177)  

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