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于光遠(1915-2013)評伝

于光遠評傳 福光 寬
 于光遠(ユー・グアンユアン)はどういう人か。簡単な略歴は、まず1915年上海生まれである(写真は成城大学3号館から成城池に続く道)。中国の名門大学清華大学で物理学を学んだが、その後、革命活動に身を投じた。新中国建国後、中共中宣部に幹部として長く在職。しかし文革中迫害を受けた。その後、復帰して国務院政治研究室。1977年国家計画委員会経済研究所所長。中国社会科学院副院長。1982-87年社会科学院顧問。2013年に亡くなり、2015年に著作集が刊行されている。
   于光遠は興味深い人である。上海、北京で育ち、受けた教育としては、留学しなかったことが一つの特徴で、中国国内で当時最高レベルの物理学の教育を受けたことも特徴といえる。その後は革命に身を投じた。また経済学者として、建国初期の中国で、教材の書き手として重要な人物の一人として知られている。いわゆる1989年の六四事件では、杜潤生、李昌、李鋭とともに趙紫陽を支持して、学生に対する武力鎮圧に反対するリベラルな立場をとったことが知られる(李鋭:《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司,2009年,p.84 小島晋治編訳『中国民主改革派の主張』岩波書店, 2013年, p.139)。しかし調べると、リベラルな立場に立ったのはこの時だけではないし、その存在の意味は意外に大きい。教材の書き手として、一見無味乾燥な仕事をしながら、しかしその中で、人に先んじた仕事をしている。
 またその後も、1990年代から2000年代にかけて、毛沢東の新民主主義論を回顧する議論が生じたとき、彼の『新民主主義論から社会主義初級段階論へ』(人民出版社 1996年 未見:手元にあるのは韓鋼が注を加えた長江文芸出版社版 2005年)が議論の先取りをしていることが、話題になった。(この論争については以下の王東の著書に詳しい。要点は、新中国がスタートしたとき、中国は社会主義ではなかった。劉少奇が新民主主義を強固にするという主張を掲げたが、毛沢東はそれを覆して新中国は社会主義化の道を進んだ。しかしそれは1950年代末の「大飢饉」、1960年代から1970年代にかけての「文化大革命」につながった。1978年の改革開放後、社会主義改造の問題点を認めて、中国は社会主義初級段階にあるとして、市場メカニズムを認めて急速な経済成長を遂げるようになった。問題はこの改革開放後の中国社会の評価にあり、あるいは社会主義に一度進んだことの評価にあるのだが、毛沢東がかつて提起した新民主主義が社会主義への準備段階だとすれば、現在の状況は(社会主義というより)実質的に新民主主義への回帰を意味するのではないか、あるいはそもそも社会主義に進んだことは間違いだったのではないか、という議論が書かれて話題になったのである(この議論は以下に紹介されている。王東:《共和囯不會忘記:新民主主義社會的歷史和啓示》東方出版社,2011年,  pp.1-19, esp., 8-16)。
    于光遠は1980年代に一線から退いているのだが、このように引退したあとも、話題を提供し続けた。73歳を超えてから出版した「1978:私が自ら経験したあの歴史の大転換」(《1978:我親歷的那次歷史大轉折》中央編譯出版社, 1998年:手元にあるのは2007年の再版)は、1978年の中共十一届三中全会の前後に党内で生じていた議論の詳細な記録であり中国watcherとしては興味深いものであった。
 于光遠は中央宣伝部に幹部として長く在籍し、いわゆる学習教材の執筆を大量に行った(龔育之は1950年代に于光遠他が編集した『政治常識読本』『経済建設常識読本』が大量に印刷されたこと、蘇星と共編の『政治経済学』唯一の政治経済学読本でやはり印刷部数は大量だったとしている。つまり党が出版物をすべて管理している状況で、于光遠は学習教材の中心的な書き手であり、大きな権威と影響力をもっていたと思われる。龔育之:《我的第三個上級-于光遠素描》載《讀書文稿》2010年10月, ·p.39)。中村達雄の研究によると、『政治経済学』はラジオ放送により全国に伝えられた教材でもあった。全国の共産党幹部が、彼の著述によって学習したのである(中村達雄「ラジオペキンの1950年代」2018/06/19 https://shukousha.com/column/proparadio/6505  )。于光遠の著述のいくつかは日本でも翻訳された。とはいえ学習教材という性格を考えると1950年代の日本で于光遠の名前は広まったとは言えても、彼個人の考え方が、日本で関心がもたれたとはいえないだろう。
 同じく于光遠の部下だった李成勛が于光遠の影響力の大きさを示すものとしてまず挙げるのも、こうした教材の書き手・編集者としての影響力である。李成勛によると、四人組が粉砕されたあとの高校(日本の大学に相当)の政治経済学教材を新たに編集することを于光遠は教育部に提案した。その後、于光遠の指導のもと編集された『中国社会主義経済問題』は1979年に初版、1982年に修訂版が出され出版部数は累計1000万前後に達したとのこと(李成勛:《追求創造無私服務-深情追思于光遠先生》載《經濟學人》2013年第12期上,pp.26, 28-29)。このような党の教材作成に長年直接間接関係することで、于光遠は大きな影響力をもっていたと思われる。
 文革のある日、于光遠は山高帽を被せられて立たされて批判を受けたのだが、張聞天、于光遠、孫冶方の順だったという(《「文革」中的我》廣東人民出版社,2011年, p.7)。これは、于光遠の大物ぶりがうかがわるエピソードである(張曙光は于光遠を孫冶方,薛暮橋と並べ経済学の三巨頭の一人としている)。張聞天は廬山会議(1959年7月)で彭徳懐支持の発言をして毛沢東に嫌われた。元中国共産党のトップである(張聞天は、日本ではあまり研究されていないが、彼の廬山会議上発言を読むと、会議の論点の一つは異なる意見を右派として切り捨て殺人にまで至っていることへの正面からの批判だったことが分かる。余力のある人にはこれをぜひ読んで欲しい。《張聞天文集(四)》中共黨史出版社,2012年,214-231。ここで改めて考えられるべきことは、民主主義というものが人類の知的成果であるという認識だろう。そのような認識に至った中国の革命家として、陳独秀や顧准を上げることができる。陳独秀は「我的根本意見」(1940年11月)において、無産階級独裁とは党の独裁であり、党の領袖の独裁であり、独裁には腐敗がつきものだと指摘している。《蔡元培自述 實庵自述》中華書局,2015年, 193-198, esp.195)。孫冶方はその価値規律の主張が、毛沢東の議論にたてつくものとみなされた。当時の中国経済学のアカデミズムの頂点にいた人物。この二人の「大物」に挟まれて于光遠は批判を受けたわけだが、中央宣伝部では于光遠が大物代表として批判を受けたということだろう。中国社会での彼の位置付けが伺われる。そして1966年5月から1969年春まで、北京で自己批判闘争に耐える日々が続き、続けて寧夏に設けられた中央宣伝部「五七幹部学校に1972年9月まで押し込められ、労働、審査を受けた(この経緯は薛暮橋と似ている)。その後は、北京に戻り、取り扱いの最終決定を待つ日々になったが、国務院政治研究室に事実上、仕事で復帰している(同p.42)。
 ただ彼は何を批判されたか、また何を反論したか。『文革』中的我ではなぜか一切語っていない。
   彼は上海人である。彼は1934年の夏休みに上海大同大学から北京の清華大学物理系3年級に転学している。当時、彼は理論物理に興味があり、数学系の科目が好きだった(《「文革」中的我》廣東人民出版社,2011年,pp.24-25 この本は1993年に初版が出ている。文革中の自分を振り返るというスタイルで、なかなかシニカルなエッセイである。私の手元にあるのは2011年の再版である)。その彼がどのように共産党に目覚めたのだろうか。彼自身は、1937年に大学の助教を再任せず、職業革命家になったとしている(同前 pp.16-17)。
 中央宣伝部で長く直属の部下だった龔育之は、于光遠の人となりを紹介した一文のなかで、「彼は名門大学を正規に卒業し、また”一二九”から延安に来た革命経歴」があるとしている(龔育之:《我的第三個上級-于光遠素描》載《讀書文稿》2010年10月, ·p.36)。ここで「一二九」とは、1935年12月9日、北京の大学生を中心に、日本が進めている華北分離工作に対して生じた「一二・九」運動のこと。于光遠とほぼ同世代の李鋭は1934年に武漢大学工学院に入学し、「一二・九」運動を契機に共産主義運動に自身身を投じたことを語っている。李鋭によれば、この集団の人たちは、共産主義運動に身を投じたとき、マルクス―レーニン主義の古典を読んでいなかった。彼らの基本的思想は、むしろ民族主義と民主主義であり、延安に移ってから「党文化」との間で、思惟形式と行為形式の両面でくい違いを経験した、と述べている(李鋭:《李昌和「一二・九」那代人》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司,2009年,pp.279-280 小島晋治編訳『中国民主改革派の主張』岩波書店, 2013年, pp.64-65)
 于光遠がこのくい違いにどのようにあったか、またそれにどのように対処したかについての資料を依然、私は発見できていない。確実なことは、彼はこのくい違いの中で生き延び、マルクス主義理論研究の権威とみなされるようになり、1948年からは中央宣伝部の幹部として活動するようになったことである。ただ文革で現れたのは、この出発点の「ほころび」ではないか。と私には思えるのである。
 彼の人生の「ほころび」は文革で批判を受けたこと以外にも見出せる。彼は、最初の妻の孫歴生(1934-1968)と反右派闘争の過程で、1959年に離婚させられている。北京の女学生だった孫とは延安で知り合い、1951年に結婚。しかし反右派闘争において孫の言動が反幹部的であるとして、問題視され離婚を迫られている。孫はその後、北京女三中の教員となり、文革の渦中に亡くなっている。死因は明確でないが、闘争の犠牲になった(=紅衛兵により殺された)ことがうかがわれる。于光遠は反右派闘争という思想闘争の中で、妻そして自身の家庭を守れなかった経験をしている。
 研究の面では、文革をはさんだ時期に彼が進めた「経済効果指標」に関する研究は興味深い。課題はこうである。社会主義経済の条件を守りながら、経済効果をいかに改善するか。そのためには経済効果が正しく測定されねばならない。労働の消耗を基準とする場合(生産量Pを生産するのに費やす労働Lから労働消耗率をL/Pとする)、労働の占有を基準とする場合(生産量Pを生産するのに占有される労働者数がN、それぞれの労働時間がMのとき、労働力占有指標はN/Pであり労働の消耗は(N・M)/Pと定義している)、にまずわけてから詳細な議論を展開している。この論文は、1963年に執筆され、1978年になって『経済研究』誌に改めて発表された。この論文は、正直な感想としては、おもしろい論文ではない。ただ1960年代前半に経済効果を測定する問題が大事だとして、記号を用いて量で把握しようとしていた点に、教条的な社会主義者ではない非凡な面を感じる。
1979年2月 のちに社会主義初級段階理論に発展してゆく議論の萌芽がこのとき若手の理論家から出てきた。中国はなお社会主義ととして発達途上にあり未完成であるという認識である。この若手を于光遠は保守派の攻撃から守る立場で動いている。1981年には社会主義初級段階という表現を承認させたとしている。)
   1979年3月31日から4月21日の日程で中国社会科学院訪日代表団を率いて彼は、日本に飛来している(肩書は社会科学院副院長)。この訪日は改革開放直後であり、その時の彼の講演要旨をみると、中国の問題として、管理面での科学化・現代化のレベルが低いことを上げ、中国は豊富な経験を持つ生産の進んだ国家にまなぶべきであるとして、50年代末から60年代初めに、経済的効果の科学的な概念などの問題について、初歩的な研究を進めたことがあると、自身の経済的効果に関する研究に言及している。(『アジア経済旬報』116号、1979年5月21日, 4-8, esp.7)
(1984年10月、党の十二届三中全会は、社会主義経済は計画のある商品経済だという結論をだした。)
 于光遠は1986年にも来日しており、いくつかのインタビューが残されている(肩書は社会科学院顧問)。その中から、注目される発言を拾っておく。まず冒頭の発言で、今日の段階は、政治体制改革の諸問題に重点的に取り組んでいく必要がある、政治体制の改革の方でもさらに大きな前進が必要である、としている。そして改革解放後、経済体制の改革とともに政治体制改革が叫ばれたにも関わらず、言論の自由、民主化、選挙などに各方面にわたり問題が残っているという指摘に対して「これはできるかできないかの問題ではなく必ず実施しなければならない必然条件です」と受けている。他方で、中国では、法律、政治規律、党規律の区分が明確でないという問題があり、まずは学会でこの三者の概念をはっきりさせる必要があると指摘している。次にいわゆる、資本主義と社会主義が計画経済という点で全く同じものになるという議論については、社会主義は公有制の上に成り立っているので、総合的な体制改革も行える、その点で二つがまったく同じものになることはあり得ないとしている。興味深いのは発言はそれで終わらず、現在の中国の所有制は、事前によく研究し計画を立てたうえで施行しているのではないとして(完璧でないというニュアンスだろうか 福光)、体制の欠点はどんどん改善していける、とつけくわえていることだ。そしてさらにインタビュー最後のところで、資本主義が封建主義に反対して打ち出した民主、自由、博愛、平等はすべて良いものだと肯定し、ブルジョアジーの民主と資本主義の民主を区別し、資本主義国家の民主を肯定的にとらえていることも注目できる(『エコノミスト』1986年9月30日, 48-53)。民主派の立場にあることを、公然と示した点には彼の気概を感じ取ることができる。
 (于光遠は1990年代になってから発表した新民主主義の歴史命運において、1956年の社会主義化が中国の生産力の水準に見合っていなかったと、指摘している。単純にいえば間違いだったということを事実上指摘している。他方で劉少奇の天津講話によって提起されていた新民主主義を徹底する別の発展の道を毛沢東が閉じてしまったことも指摘している。于光遠は本来中国は資本主義を充分発展させてから社会主義に移るべきであった。しかし急いで(新民主主義を放棄して)社会主義に移行したために、畸形的な社会主義になってしまったと指摘している。なお于光遠はそれでも中国は社会主義であるとしており、新民主主義にもどれと主張しているわけではない。なぜ現在の中国が畸形的であるかを問題にしているのである。于光遠のこうした議論は極めて論理的であるが、日本ではその意義を含めて、いまだ十分研究されているとはいえない。他方、新民主主義については中国でも近年研究が盛んであり、その関係で于光遠は中国では改めて注目されて読まれているといえよう。) 

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