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趙紫陽と内蒙古、広東 1971/05- 75/10

 以下の資料をまとめた。
   盧躍剛《趙紫陽傳》INK印刻文学生活雑誌出版2019年
   罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社2015年 
 《中国共産党簡史》人民出版社2011年
 《増訂新版 ”文化大革命”簡史》中共党史出版社2006年 

 趙紫陽が内蒙古にいたのは10ケ月ほどにすぎない。1971年5月内蒙古自治区革命委員会副主任として赴任。10ケ月の内蒙古のあと、1972年3月北京を経て、広東省革命委員会副主任として広東に赴任している(なお1974年4月には同主任、省委員会第一書記、つまり省のトップになっている。広東省は人口が最も多い省であり、その省のトップを務めた意味は大きい。)。
 内蒙古では1947年以来長年内蒙古を支配していた烏蘭夫が1966年に打倒されたあと混乱が続いていた。内乱が起こり、軍の統制下に入ったものの、政治は不安定であった。その一つの理由は文化大革命中、内蒙古人民革命党(内人党)事件が作り出されて、拷問による自白強要などで、蒙古人に多数の被害者を生んだことだった。ところで趙紫陽は、わずか10ケ月に何をしたのか?
 詰めて言えば極左的な主張を抑えて、農牧民の小自由。三自由とよばれる、自留地、自留畜、自留樹を回復した。内蒙古の農牧問題解決の道筋をつけたことが重要に思える。極左的な政策からの転換を図った意義は大きいと思うが、内蒙古の特殊性や、その後のこの政策の効果などは既述の書物中で紹介されていない。
 この三自由を定めたのは1971年9月に制定された農業十七条という文書。自留地、自留畜、自留樹を認める条文があるほか、養豚事業の発展を促す、労働報酬における平均主義に反対する、など書かれている政策は確かに極左的政策を抑える内容。蘆はここに広東での農業専門家としての趙紫陽の経験が生きていることを示唆している、が、しかし例えば広東での趙紫陽が行っていたこととの関係が今一つ見えない。1972年3月に北京を経て、広東省革命委員会副主任。広東省はもともと趙紫陽が第三書記を務めていたところ。そこに戻したので、これは趙紫陽の事実上の復権を意味しないか?1974年4月に省委員会第一書記、革命委員会主任になった。1975年10月に趙紫陽は中央政治局委員となり四川省に移動になった。その1年余りの間、広東省で党を代表する位置にあった。
 広東省においても内蒙古と同じだが、軍が事実上執政する中で、暴力によって自白を強要する冤罪事件が起きている。文革により広東省で排除された趙紫陽が、まず内蒙古に派遣されたあと、広東に戻ってきたことは興味深い。仮説としては軍による執政に不安を感じた党中央が、広東の事情に明るい趙紫陽をかなり信頼して戻したこと、また広東の外から来た人たちも趙紫陽を頼りにしたことが考えられる。しかし他方で、このとき広東省で政策の面で何か新たな政策を趙紫陽がしたという情報はない。
 ただ注目されるのは、李一哲事件への対応である。この事件は広州で起きた。発端は1973年12月、美術学校学生の李正夫、下郷青年の陳一陽、水産製品鍋炉の労働者王希哲の3人が、「社会主義的民主と法制について」と題した手紙を毛沢東や省の指導者に書いておくったとされることである。署名は3人の名前から1字をとって「李一哲」。手紙の内容は林彪批判の形で民主法制を求めたものとされる。この3人は、多くの戦争経験のある郭鴻志のもとで1973年1月から社会状況の勉強会をしていた。郭鴻志が手紙を送ることなどを提案したとされる。このとき3人は毛沢東らに手紙を送ったほか1974年11月には広州市内に「民主と法制」と題した長文の壁新聞を張り出した。この壁新聞は注目された。「文化大革命」で壁新聞は造反派の武器だったが、この事件は逆に文革を批判する人たちが壁新聞を使って声を上げ始めたことを示す重要な事件であった。
 この事件に至る前に、1971年9月にいわゆる林彪事件が起きて、文革の旗振りをしていた一角が崩れている。林彪は自身の危険を感じるようになって毛沢東暗殺を企て、その露見によりロシアへの逃亡を企てたが、その飛行機が墜落し亡くなったという大事件である。そして1972年2月にニクソンの訪中が実現。中国は西欧世界との関係を改善することが可能になろうとしていた。しかしニクソン訪中後も、毛沢東自身はなお文化大革命の継続を意図していたことも明らかで1973年8月に開かれた第10回党大会は文革路線の堅持を打ち出している。ただ毛沢東から見て、文革派の4人組の中に国家の運営を任せられる人物がいなかったことも事実で、周恩来の病状の悪化もあり、鄧小平の復帰を毛沢東は指示している(1974年12月)。
 李一哲事件は、そうした政治の転換点で起きた。興味深いのは、趙紫陽の対応で、趙紫陽は、壁新聞の内容を批判したものの、首謀の3人の扱いは、ただ再教育に送っただけとされること。たしかにそこに趙紫陽の考え方をみることができる。首謀者たちが逮捕されるのは、趙紫陽が1975年10月に広東をはなれてからさらに1年以上の時間がたった1977年3月。この間に1976年9月9日に毛沢東が逝去。10月6日夜に四人組は拘禁され、隔離審査となっていたが、しかし党の指導者であった華国鋒が、毛沢東の指示を堅持する方針を示したために、李一哲事件は見直されず、逆に事件関係者が逮捕されることになった。事件の評価が見直されるのは1978年習仲勳が省第一書記として入ってから。習は12月30日すべての李一哲事件関係者を釈放。翌79年2月6日、関係者の名誉は回復された。

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