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プロファイル

 私は1970年代に慶応の大学院で古典派金融論の文献を学び(指導教授は修士が北原勇(1931-2024)先生 博士が飯田裕康(1937-)先生)、国会図書館調査局, 立命館大学(金融論)を経て1998年度(平成10年度)から2020年度(令和2年度)まで成城大学で教壇に立った(証券市場論と財務管理論)(写真は成城大学3号館ベランダ。)。なお2023年(令和5年)6月から公益財団法人政治経済研究所理事を勤めている。
 慶應では北原勇(1931-)、飯田裕康先生のほか、渡邊佐平(1903-1983)小竹豊治(1906-1990)井村喜代子(1930-2023)などの先生方から指導を受けた。慶應で良かった点は自由に勉強できたことで、たまたま指導にみえていた法政の佐平さんのもとで金融論の手ほどきを受けた。マルクスの批判要綱を読み、並行して19世紀の議会報告書などを読んでいたが、歴史をそのまま正確に理解することを学んだ。今考えると、マルクスを素材に金融論を構成しようとしていた、いわゆるマルクス学派の金融論(佐平さんより若手に、大阪市大の飯田繁、立教の三宅義夫1916-1996、中央の麓健一など。当時は慶應の飯田裕康、九大の深町郁彌は新たな世代として注目されていた)に対して、佐平さんは、マルクスを読みつつも強い不満を持っていたのではないか(他方で現代経済学を取り込んだ、より開放的な体系を大阪市大の川合一郎,生川栄治などが提示していた)。佐平さんにとり根底にある問題は、マルクスがなお19世紀の金融論の学習途上にあり、金融の事実の把握もまだ未完成だったという認識である。佐平さんに取り、マルクスは素材の一つであり、絶対視すべきものではなかった。佐平さんの金融論は、佐平さんが19世紀の文献を再構成して理解した歴史的叙述になっている。佐平さんは、古典派の金融論と金融の歴史を読み込むことで、歴史と理論を一体化した金融論を目指していた。マルクスを否定しないけれど、絶対視もしない。この佐平さんの考え方は、金融制度の変化に伴い新しい学説などが生まれることを、理解することにもつながる。
 大内力(1918-2009)さんの「国家独占資本主義論」が刊行されたのは、ちょうど私の学部時代のことだった。資本主義社会が両大戦間期に管理通貨制度に移行することで金本位制を離れてケインズ的な有効需要政策を展開することが可能になった、という大内さんの時代認識は今も有効だ(1933/03 Fルーズベルトの大統領就任、金融緩和に始まるNew Deal政策の展開1933/4米、金本位制を停止。1934/01米、1オンス=35$に固定、管理通貨制に移行1946年米雇用法)。
    この大内さんの「国家独占資本主義論」の前後あたりから、東京大学の宇野派経済学と、この宇野派に属さないマルクス経済学者との間での建設的な意見の交流が始まったように感じる。宇野派の中でそうした姿勢を象徴する人物は伊藤誠(1936-2023)さんではないだろうか。
 他方で社会科の教科書は、現代の資本主義を、資本主義と社会主義の二つの要素が混じった混合経済体制と教えるようになった。さらに第二次大戦後、雇用保険制度に加えて、公的医療保険制度、公的年金制度などの充実が日本でも次第に進められ、皆医療保険、皆年金が達成された(英ベバリッジ報告書1942 社会保障制度の歴史:厚生労働省HP)。国家がこのように福祉においても積極的に活動することが、肯定されるようになった。こうした「福祉国家」にいる私たちは、福祉国家制度の質の問題、自助と公助のバランスをどのように取るのかという、体制論を越えた普遍的な問題に到達している。資本主義のもとでは「福祉国家welfare state」は成立しないーといった、偏狭な考え方は時代遅れになった。なお敬友、井村進哉がやろうとしたことは、この「福祉」のなかに、住宅が入ってきていること=勤労者の住宅の取得を国家が支援するようになった歴史段階を捉えようとしたものだ。
 住宅取得への支援は、これはそのあと表面化した「金融化」に比べて、歴史段階として区切りやすい。「金融化」は、現象としては19世紀にも観察されている。はっきりと近年の現象を段階的に位置付けることはむつかしい。多数派は、産業資本の利益形成自体が、金融市場たとえば株式市場を媒介することを「金融化」と位置付けるが、こうした「金融化」は歴史的には早い段階から存在する。では近年の段階的な特徴は何か。一つの解釈はいわゆる「証券化securitization」をもって、新たな特徴とするものだ。証券化はサブプライム恐慌の一因となったことからも、確かに段階的特徴についての有力な仮説といえる。
    他方で福祉国家論あるいはその前身としての混合経済論には資本主義の現状を社会進化の到達点として肯定する面があり、現状を批判する側面が弱まっている。そもそも資本主義をただ肯定する、新自由主義的経済政策、すなわち市場主義をより徹底する経済政策を進めると、所得格差や資産格差が拡大すること、大きな経済変動を招くことも明らかになっている。また資本主義の蓄積への絶えざる衝動が、地球という環境の制約と衝突していることも指摘されている。こうした環境制約と経済成長との矛盾という考え方は1960年代のローマクラブレポート以来、盛んに議論されてきた。近年では古典派以来、経済学の主流が、成長神話にとりつかれていたという反省も加わり、「脱成長」=資本主義システムから離れることが改めて主張されている(斎藤幸平1987-;江原慶1987-)。
 脱成長が資本主義システムのもとでは実現できないとの主張があるなか、おぼろげに浮かび上がる問題は、それでは脱成長を実現することが、先進資本主義国の課題になるのではないか、ということであろう。この間、経済成長率以外の指標を社会の目標とする議論がさまざまに提出されている(坂本正1948-)。
 システムの変換については、私は現実の「社会主義の実験」が共産党の独裁をもたらし、多大な人的犠牲を生み出したことへの反省が必要だと考える。経済システムの変更の過程において、権力を牽制するシステムとしての、議会制民主主義、法による支配(そして思想・言論の自由)の維持が必要だというのが、「実験」による悲惨な経験を踏まえた反省であるべきだ。スターリン、毛沢東、ポルポト、北朝鮮、こうした狂気を私たちは支持できない。このように変換の過程に制約をおくことで、現実に可能なシステムの選択を私たちは提案してゆくべきだ。
 経済成長率がより低くなったとしても、社会の平等や自然環境の保護、などをより重視する社会を私たちは目指すべきだろう。選択の自由、社会的な活力を生み出す、市場社会(競争社会)が維持されるべきだが、経済成長よりは、人々の幸福を重視した社会であるべきだ。そうした目標の転換は、資本主義社会では実現できない、という立場からすれば、目標の転換を実現した社会は資本主義社会ではない。
   さて大学院では最初、北原勇さんの元にいた(北原さんの議論は産業組織論の影響を受けたある意味で慶應らしいものだった)が、北原さんの独占資本主義論をそのまま受け継ぐのは疑問に思えた。それは北原さんの議論の繰り返しになるからだ。そこで自身の領域を開くべく学史と金融の勉強を考えて、北原さんの指示で佐平さんの元に通った。ところが北原さんは私が離れることに不満があったので、佐平さんを「古い」と一刀両断にした。が私は、それには同意しかねた。こうして北原さんとの関係が行き詰まったときに頼ったのが、留学から帰国直後、新たに大学院担当を始めた飯田裕康さんだった。寛容な飯田さんのところには、ほかの研究室から流れてきたものが集まった。先輩にシスモンディ研究の中宮光隆、恐慌論の清水正昭(1948-)、商業信用論の田中秀親がいた。すぐ後ろの後輩に、マルクス研究者として大成する的場昭弘(1952-)がいた。そして大友敏明(1954-)や相沢幸悦(1950-)が、間もなく合流した。
 大学院の途中で国会図書館への就職を試験で決めたとき(国会図書館にはロシア経済の菊池昌典や国際金融の桑野仁が在籍していたという知識があった)、最大級に喜んでくれたのは小竹豊治さん(既出)だった。仕事を人に頼らず、自分の力で得たことはとても良かったと。佐平さんを慶應に招いたのも実は小竹さんだった。渡邊先生の教室では、玉置紀夫(1940-2004)齊藤壽彦(1945-)鈴木俊夫らと出会った。いずれも勉強家だった。大学院時代には、母の同窓生の息子さんということで谷口明丈(京都大学)とも出会った。そして既述の鈴木俊夫。この二人はその後そろって別の大学を経てから、東北大、中央大という同じコースを辿った。二人はそれぞれ大変な勉強家で研究者として大成した。
 大学の学部時代は、ストが多かった。その合間を縫って、八王子のセミナーハウスに通った。私は大学の中だけでなく、外での研究会でいろいろな研究者と交流したが、大学の外で人と交流する習慣は思えば、このセミナーハウスで身に付いた。
    まだ大学院にいる頃、大学祭で講師の一人に呼んだことが縁になり長坂聰(1925-)先生の研究会に加わった。しばしば二人きりになり長坂は多くのオフレコの話をしてくれた。その研究室で出会ったのは立松潔(1949-)。造船史を学んでいた立松の勉強は私よりはるかに進んでいた。立松がふと、中国の農地改革で地主がたくさん殺されたことに言及したことがあった。しかしその重要性(=地主階級だとして多くの人を殺して中国の農地改革が行われたことを正当化できるか)に私が気が付くのには、40年の月日が必要だった。
 齊藤壽彦先生とも研究会をした。在外正貨の問題を研究していた齊藤の研究も立松と同様に、私よりはるかに進んでいた。1980年代初頭に国際連合大学で彼が出したレポートはそのことを良く示している。齊藤との研究会で出会ったのは、松本朗(1958-)。彼は愛媛大学を経て立命館大学に勤め、国会図書館―立命館―成城と歩んだ私の人生と、時間差でクロスした。研究会にはほかに、大野和(金融経済研)、飛田紀男(三和銀行)、道盛誠一(その後、京都工繊大学を経て下関市立大学)の姿があった。
 振り返ると国会図書館にいて、小竹先生の紹介で國學院で証券市場論を講義していた時代は楽しかった。何も考えず勉強だけしていたからだ。熊野剛雄(1926-2020)先生に日本証券経済研究所の証券市場問題研究会に誘われたのも、そのころだった。その少し前には、東京大学における公開自主講座「公害原論」という市民運動に加わっていた。宇井純(1932-2006)、中西準子(1938-)らの講義を夜、駒場や本郷で多くの市民とともに聞いた。当時、国土交通課で下水道問題を担当していた私は、公害や、流域下水道をめぐる議論などを熱心に聴講した。自分が仕事で担当していることと、社会との接点を模索していた。 
 その少しあとだ思うが、井村進哉(1953-)、斉藤美彦(1955-)王東明(1963-)と渋谷博史(1949-)先生の研究会で出会うことになった。斉藤は全銀協、日本証券経済研究所、大学とたびたび転身で驚かせた。王とは人生の後半に入って、中国の証券市場研究で深く付き合うことになった。戸田壮一(1948-)とは渋谷の研究会ほか、様々な場所で会い勉強の邪魔をした。
 なお学会では、ただ専門の話だけを接点に、後藤新一、鈴木芳徳(1937-2010) 、立脇和夫、佐々木仁、高月昭年、高橋正彦、中本悟らの有能な先生方から恩顧を受けたことは有難いことだった。
 国会図書館では西野照太郎(AA問題の権威 1914-1993)から庇護を受けたほか、国宗正義(国土交通調査室主任 建設省 河川法の大家)、茨木廣(総合調整室主任 自治省 元自治大学校長)、久光重平(財政金融調査室主任 大蔵省 貨幣史に詳しい)、石原義盛(1922-2000 久光さんのあとの財政金融調査室主任、退職後、富士短期大学学長)などの先輩方から薫陶を受けた。また調査局で、村上勝敏(石油資源史)、春山明哲(1946-台湾史)、山崎隆志、松尾和成(2010年平成22年に専門調査員として在職中に急逝)などの先輩同僚と、調査業務についてまた調査局の人選をどう進めるか、議論を交わした日々は記憶に鮮やかだ。調査局の誰もが遅くまで勉強する雰囲気は好きだった。夜、はるかに酒盛りの声が聞こえ、「梁山泊」という言葉を想った。財政金融課に移ると、活発に執筆して、やがて大学に移ることになった。参議院にいた田中信孝(財投、国債などの専門家)との出会いもあった。国会図書館は国内文献調査の一大拠点だ。議会資料の豊富さでも一般の大学図書館よりも優位にある。2013年平成25年に副館長として在職中に早逝した田屋裕之と電子図書館について議論したのは懐かしい思い出だ。1980年代前半、田屋が教えてくれた電子ライブラリ-は現在では、日常の現実になっている(なお、国会図書館同期入社のうち上級職は先ほど名前を上げた、松尾和成:東大法のほか私を含め全員で6人。この国会図書館採用時試験は、極端な激戦で新聞記事になった。唯一の女性、前田憲子:東大文が銀行員だった夫君のオーストラリア勤務に伴い退職に追い込まれたのは残念なことだった。そして私が離職した。残りの4人は残り、松尾が在職中亡くなった。残り3人の中にドイツの教育制度の研究を進め評価されるに至った木戸裕がいる)。 国会図書館には、いろいろな頭脳が集まっていた。朝、喫茶室には藤田晴子(1918-2001)がいたし、昼、昼食にでかける一団には加藤典洋(1948-2019)袴田茂樹(1944-)の姿があった。外交防衛課には山本武彦(1943-)がおり、政治議会課には成田憲彦(1946-)がいた。
 92年に赴任した立命館では、坂野光俊、坂本和一(1939-)、若林洋夫、角田修一(1948-)、平田純一(1950-)向壽一(1953-)などの先生方から直接のご指導・ご薫陶を得た。衣笠は研究棟の地下に書庫があった。夜、一人書庫にこもり、最終バスで下宿に帰る。時々一緒になる他学部の教員と言葉を交わす。事務室も深夜まで仕事の明かりがついている。学部をまたがって、これはと思う先生の話を聞きに伺う。こうした立命館の生活は好きだった。好きだった立命館だが、離れたのには個人的事情があった。話が決まる直前に母がクモ膜下出血で倒れたのである。止む無く共稼ぎを維持して、京都に朝から夜まで3日居て、東京と往復し、週末は実家を訪問する生活を始めた。この後、立命館と成城でもらった研究休暇は介護や家族へのケアにほとんどが消えた。介護、子育て、研究すべてが100%ではなかった。家族にも負担がある生活だった。今になると反省が多い。
 1998年に赴任した成城で22年過ごした。自分の力を活かせたか自信がないし、その間、母の問題は続いた。前半の10年、研究は担当科目に焦点を合わせて、企業財務、証券について進めた。経営学科に属し、すぐに学科主任にされたが最初は経営学のイロハを知らないことがつらく、それを学んだあとも、教育の方向性で後述する自分の意見(3年全員ゼミ制の廃止)を通すこともできず、そのほかの運営の仕方にも独特のルールがあり、なじめないところがあった。他方、退職まで10年というところから、中国を素材に証券市場を手始めに新たな中国研究を進めた。
 また成城での20年余りの間の前半10年、大学の外の研究会として足しげく通ったのは、井村進哉先生が運営していた金融システム研究会(中央大学経済研究所)だった。たまたま中央大学の後楽園キャンパスが会場で、通いやすいことが大きかった。その金融システム研究会が閉じられてからは、成城大学経済研究所で自身が運営する研究会、さらに市民向けコミュニティカレッジが足場になった。研究は一人では成り立たない。例えば、アメリカのレッドライニングについて私は関心を持ったが、楠本くに代が行っていた金融消費者の研究が参考になった。また法律については、法学部出身の先生方の役割が大きかった。アメリカの銀行法制については明海にいた高月昭年、日本の証券化については横浜国大の高橋正彦。金融や証券の学会では、法律知識が求められていたので、この二人の役割は大きなものがあった。もっとも正彦さんの討論者にたびたび指名されたが、証券化法制を推進した当事者の一人に切り込むにはこちらは力不足だった。
 研究の大きな方向性では、歴史研究を完成したいという大学院の時の思いはずっとあったが、与えられた生活は、歴史への沈潜を許さなかった。ベアリング恐慌について大学院の日々に集めた資料は、立命館から成城へと持ち歩いたが、結局使う機会はなかった。実現しなかった研究テーマの一つにイギリス証券市場史の研究がある。このテーマについては法政にいた飯田隆(1956-2011)の研究がある。同様にイギリス金融史の西村閉也(1929-2014)とその研究も、羨望の気持ちで仰ぎ見る存在であり続けた。また日本の証券市場史の研究がある。この問題については、鈴木芳徳(既出)、熊野剛雄(既出)、小林和子、釜江廣志らの研究が想起される。私は現代の株式市場を主に問題にしが、この点については、奥村宏(1930-2017)、松井和夫(1935-2004)、高田太久吉(1944-)、坂本正(1948-)といった先生方のアプローチに学ぶことが多かった。
 教案の作成、講義の準備に人知れず時間を割いた。成城では、國學院で教えていた証券市場論に加えて、財務管理論を担当することになったので、二つの科目を組み合わせた教案を作ることに取り組んだ。両者の関係は、証券市場論がマクロ、財務管理論がミクロになる。証券市場論は歴史をたどると商学系の取引所論に経済学の立場からの議論が加わったもの。他方、財務管理論は経営学にファイナンスの議論が加わったもの。さまざまな知識を学ぶメリットはある。教案は何回か大きく見直した(『金融自由化時代の証券市場』日本経済評論社1986/10;『証券分析論』中央経済社1997/05;『ベーシック証券市場論 改定版』同文舘2004/04)。最終案を仕上げてネットに残しておくが、改良の余地は大きい(証券市場論 財務管理論)。
 ネットに講義案を上げたあと、ネットに講義案があると、教室に学生をどう誘導するかという問題が派生してしまうことに気が付いた。たしかに自宅でネットで講義案をよく読んでくれれば、それでいいかともいえる。最近の教室は半分劇場化していて、学生はスマホをいじりながら、教師を眺めている。学生はスマホで遊んでいることもあるが、教員が話した言葉で、分からない言葉を検索していることもある。あながちスマホ使用を禁止できない。zoomの研究会や会議で、映像をオフにして音だけ聞いて別の作業をしていることは、我々もある。なので、学生がスマホをいじっていると言って怒るのも時代錯誤だ。さらに言えば在宅勤務を認める企業と同様に、大学も講義をネット配信し在宅通学を認める時代に入っている。さらにさらに言えば、学生を囲い込まないで解放し、学生はそれこそ世界中の良質な多様な講義に、ネットを通じてあるいは直接触れるべきではないか?だとすると大学はすでに解体しており、私自身はそれを支持しているのかもしれない。
 成城では立命館のように、私が他学部の教員を訪ねることはなかったが(なぜか学部間の壁は立命館より高く学部内にも派閥があることに驚いたが、慶應や立命館に比べて、創設の理念の明確化が成城は弱いがそれがそもそも成城のスクールカラーかもしれない)、逆に夜になってから、研究室に学生が尋ねて来ることがよくあった。残念なことに建物が建て替わると、そうした雰囲気は乏しくなった。また学生の親よりこちらが年上になると、学生との付き合いに限界を感じた。大学教育の理想を語るなら、学生の相談相手には若いチューターをあてて、年取った教授は、講義に専念した方がいい。成城を始め一部の小規模私学が続けている、3年間全員ゼミについては、1)そもそも人数が20人程度と多すぎる(ここは国立とは違いが大きい)、2)ゼミ教育を望まない学生を強制している、3)2年から3年に進むと慣れで緊張感が下がる、4)3年の後半から就活が始まると欠席者が増える、という一連の構造問題を抱えている。ゼミは希望者だけ単年度にし、また卒論は希望者だけ提出にして、希望者だけ丁寧に指導した方がよい。現在のゼミ制度は、教員と学生の双方に無駄な努力を強いるものだ。
 成城では、村本孜(1945-)からの恩顧と直接の指導を得たほか、白鳥庄之助(1934-)稲葉元吉(1935-2008)、岡田清、山口一臣などの先輩方から折々に薫陶を受けた。稲葉さんと出会ったことで組織論という学問の潮流と、組織論からの経済学批判に触れることができたのは有益だった。また内田真人、立川潔、境新一と言った先生方と交流した。非常勤は、数阪孝志(神奈川大学)に頼ったほか(地域金融論)、内地留学時には代田純(駒沢大学)にゼミの代講を依頼した。退職直前には北原徹(立教大学)の力を借りた(金融システム論)。
 なお半生を俯瞰すると、多様なライブラリーを利用する段階を経て、インターネットを通じて、世界の文献にアクセスするように自身の調査方法は変わった。また私の研究は日本の比較研究対象として、イギリスやアメリカを意識するものだったが、現場を繰り返し見て研究する必要を感じて(退職間際の高木仁(1931-2014)の研究会で出会った内田聡の手法をみてフィールドワークの必要性を感じた。内田の頻繁に現地を訪問する手法は、確かに私に欠けている点だった)、距離的に訪問しやすい中国を対象を変更した。そのために2010年頃からかつて大学学部時代に学んだ中国語の勉強を再開し、中国における金融と経済学の歴史について積極的に書いた。最初は専門である証券市場の研究から入った。しかしやがて、中国の社会主義体制をどう判断するかという大きな問題に向き合わざるをえなくなった。そこで私が採用したアプローチ方法は、辛亥革命以降の中国の歴史を自身の観点で追うことだった。その観点を中国経済学史の研究と呼んでおく。10年近い作業で最終的に出てきた問題は、民主主義を欠いた中国の社会主義を肯定するかどうか、という問題である。私は、民主主義(独裁を牽制するシステム)を欠いた社会主義には魅力を感じないと結論を出した。
 多くの中国経済論は、こうした歴史研究というプロセスを経ていない。そのために自身の中国へのスタンスが固まっていない。なお中国の社会主義化の歴史を踏まえた経済学史研究は、最初は未開拓の領域と思ったが、京都大学に先行研究があった(河上肇シンポジウム2005を参照)。そこでその研究を行った大西広(その後、慶応大学に移籍)、さらに京大の中国共産党史研究の大家である石川禎浩(京都大学)にも抜き刷りを送るなど連絡をとるようになった。大西の良い点は実証的であること。その観点や主張すべてに同意するものではないが、精力的な仕事には一目置かざるを得ないし、なにより中国の経済学を大学人との交流によって彼はよく知っている。なお中国の経済学者の評価について、当初参考にしたのは関志雄(野村資本市場研)。しかし、その時々に立場を変えたかに見える吴敬琏を関が評価している文章を見て、関の観点にも距離を感じた。結局、人の評価の問題は、自分でその人の書いたものを読み理解して自ら評価を下す基本に立ち戻るしかない。 
 令和5年2023年11月から、公益財団法人政治経済研究所の現代経済研究室の運営を始めた。意外だったのは政治経済研究所で多くの古くからの知人の名前(代表理事に齊藤壽彦、評議員に工藤教和、合田寛、建部正義1944-、編集委員に坂本正1948-)を発見したこと。今後は、政治経済研究所から新たな情報を発信してゆければと思っている。
 主要著作: 「シティオブグラスゴー銀行の倒産」『金融経済』194)1982/06;(195)1982/08,;『銀行政策論』同文舘1994/04, ;「アメリカの郵便貯金」『証券経済』(189)1994/09,『金融排除論』同文舘2001/11 ;アメリカの住宅金融をめぐる新たな視点」『成城大学経済研究』(170)2005/09, 「中国経済の過去と現在-市場化に向けた議論の生成と展開」『立命館経済学』64-5, 2016/03;編著『グローバル化と地域金融』東信堂2021/03。主要業績一覧
 最近、自分の最初の単著である「金融自由化時代の証券時代」1986年の出版時に世話になった、日本経済評論社の谷口京延が2019年5月に67歳で亡くなっていることに気付いた。谷口にはその後、「金融規制緩和の経済学」1990年5月などの出版でも世話になっている。谷口を紹介してくれたのは、当時、三和銀行にいた飛田紀男。飛田は、岡崎女子短大に移ったが、酒好きのためか、確か在任中に亡くなった。亡くなる少し前だったろうか、飛田と神田で酒を飲んだ。飛田は、僕と酒を飲みに病を押して岡崎から東京に出てきたのだった。飛田は人が良かった。
 出版では、同文舘の市川良之にも繰り返し世話になった。そして中央経済社の有賀康夫、東信堂の下田勝司。出版社からみると著者との付き合いは年間の多くの仕事の一つなのだろうが、著者としては、出版では素の自分を見せている。裸の自分を人に見せることは人生でそうない。それだけに出版で縁を結んだ人たちのことは記憶に残る。
    ところで国会図書館時代のことで思い出したことがある。財政金融課に勤務していたとき、ときどきケーキを持って慰問にきた小島昭(財政金融課から法政大学法学部に移り法学部長を務めた)。彼が1987年に58歳の若さで亡くなっていることを最近知った。財政金融課に非常勤調査員として勤務していた佐藤和義が退職した理由がわからず40年近く気になっていたが、恩師の小島さんの死が退職の引き金になったと推理した。この推理はもちろん私の気持ちを軽くするために、思いついたもので間違っているかもしれない。人生の航路の中で、音信が途絶えた人は気になる。とくに研究者として生き残る「競争」の中で多くの人と別れて来た。多くの場合、私はそうした人たちに冷たかったかもしれない。佐藤はそうした一人だ。思い出すと当時の私は彼に対してだけでなく、弱い立場の人に冷たかったかもしれない。周りの人一人ずつの心のヒダヒダを構う余裕がなく自分のことで精一杯だったのだが、彼に温かい言葉をかけ励まし続けていたら、彼は今頃、財政学の研究者として生き延びているだろうか。今も時々そんな反省をする。
 ただ後年、成城で教員として、大学院生で行き詰まっている人の話を聞こうとしたら、拒絶されたことがあった。主任として同僚の若い教員で、途中退職する人の相談に乗ろうとした時も、断られた。つまり、こういうことなのだろう。人は同じ立場の人とは話をしたい。だけど、上から目線で、相談にのろうとする人と話たくない。佐藤君も一緒に愚痴を話す仲間が欲しかったが、私は結局、非常勤の佐藤君とは立場が違っていた。そうではあるが、彼の愚痴を聞いて、同じ立場に立ってあげればよかった。今になってそう思う。
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