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周其仁《鄧小平は何を行ったか》2008

 周其仁(チョウ・チレン 1950-)は中国で大学入試(高考)が再開された直後に入試を受けた世代(那三届)である。中国では大学入試は文革のために11年なかった。1977年10月に人民日報で再開が公布され、実際の再開最初の試験は12月におこなわれた。1977年の入試で受験生は570万人に及んだが、合格者は29万人だった(実際に進学できたものは21万人。進学できたものは受験者27人のなかで一人という狭き門であった)。この世代の優秀さは群を抜くものだったと思われる。(このときの入試については以下を見よ。王煇燿主編《那三屆  77,78,79級大學生的中國記憶》中國對外翻譯出版有限公司,2014年,12-14,31)周其仁は中国人民大学に進学し、在学中、農村研究を始めるが、そこで杜潤生の知己を得て、農村改革を若くして担うことになった。論文冒頭の記述から、2008年7月、シカゴ大学で開催された研討会(シンポジウム)で発表されたと推定される、この論文のなかには、さまざまな個人的な思い出も詰まっていて興味深い。ただもちろん内容の主体は標題にあるように、鄧小平は、一体、何をなしたのか、という問題である。

周其仁《鄧小平做對了什麽》載《新常態改變中國》中和出版,2015年,68-86 

p.68  もともと私(周其仁)は会議(2008年7月14日からシカゴ大学で開催で開催された「中国改革研討会」を指す。)のためにほかの論文を用意していた。しかし6月3日にコース教授の助手の手紙は以下の意見を伝えてきた。「コース先生はもし鄧小平に関する論文が無ければ、今回のシンポジウムは不完全だと考えています。」手紙はさらに「あなたはこのような論文を提供できる最も適切な人選を提供できるでしょう」と続いていた。これは当然私が(執筆の)栄誉を受けるということではなかった。しかし私は逆に喜んで、自らの非力を顧みず冒険をすること、そして試論を完成させ既に97歳の高齢のコース―今回のシンポの発起人で主催者でもあるーが指定した任務を受けたいと、答えた。
 初めてコースの名前をみたのは、1冊の小さな本のなかでだった。それは1985年の夏の日、北京四通公司の一人の友人が黙って私に二冊の小さな本をくれた。開いてみると、張五常著の「中国の前途」と「再論中国」で、香港の「信報」出版だった。私の手にあるこの2冊は明らかに、海賊版(盜印的)だった。判型(開本)はとても小さく紙質は奇妙なほど悪かった。写真製版の明らかな痕跡があり、表紙には文字がなく、内側に「内部限り(内部読物)」の印があった。
 張五常が誰かも知らなかったが、彼の本を開くと、もはや本から離れることができなかった。「中国の前途」の148ページで、張五常は次のように紹介している。「コースは、経済制度の動作の理解の深さで前例がないが、中国の経済の前途に深い関心を抱いている」。本書の中ではコースの2編の文章が言及されて、財産権と取引費用の概念が制度と
p.69   制度の変遷の理論を説明していた。当時私自身は市場取引にほとんど関心を持たなかった、というのは取引費用は甚だ理解しがたく、とくに取引費用をゼロと仮定するコースの定理の理解は困難だった。しかし財産権の確定(delination)については、私はすぐにその非凡な説明力を感じたのである。
 なぜ財産権の確定だけ特に感じるものがあったのか?背景の説明を許されたい。私は1978年に黒竜江の農村から試験に通り北京の大学で学ぶことになった。その前、わたしは高中で学ぶ機会がなかった。しかし1966年に初中を卒業した後、3年の授業停止を経て1968年に上山下郷。私が大学採用通知書を受け取った時、すでに俄羅斯に近い辺境(邊陲)の地に上山下郷して10年経っていた。このような私からすれば、鄧小平時代の第一ページは、それはまさに彼が1977年8月高考回復の決定をしたことであり、この1ページにより我々の時代の人間の命運は変わったのである。
 1978年10月後の北京は、中国の偉大な変革の渦の中心だった。我々は再び読書する機会を得て、学習に奮発した。我々は西単に行き壁新聞を見た。当時得ることのできた、日本、米国、欧州、香港、韓国、シンガポールでの現代化情況の報道を伝え聞き、十一届三中全会の新聞公報から鄧小平とイタリヤの女記者ファラチとの有名な談話まで、一緒に集まって聞いた。中国開放時代の端に立って、大量の顔を叩く(撲)ようにやってくる新鮮な情報を消化するため、我々は自発的に組織した読書グループの中で数えきれない眠れぬ夜を過ごした。
    しかし我々を最も動かしたのは、集会で聞いた安徽省の農村の各戸請負制の情報だった。それは現場に調査に向かった人が戻って最初の報告だった。乾燥した天気が続き、飢饉の脅威に迫られて農民たちがこっそりと集団の土地を各戸に分配したところ、糧食は大幅に増産された。しかし各戸請負は非合法で、農民はただ秘密裡に進めるしかなかった。この情報は我々を興奮させた。貧困が生来のようで、改めるべくもなかった中国農村で、迅速に生活を改善する方法がそこにあったのだ。我々の困惑は実践により生産を促進できると証明され、農民の飢えを解決できる生産方式が、一体なぜ上部構造(上層建築 下部構造である経済の上の政治、法律制度を指す)の合法承認をえられないのか?であった。(以下略)

 以下、この論文の内容を簡単に要約すると、著者は鄧小平を次の様に評価してゆく。
 まず国家政策を生産力を高める方向に転換することで、自発的つまり自然発生的な約束(合約)=農民の各戸請負制(包産到戸)に、適法(合法)であるという承認と保護を与えたこと。p.71 自らの政治的な権威を用いて、また「中国特色社会主義」という表現(標題)で合法的承認を提供した。p.74
   二点目としてでてくるのは安徽省蕪湖の個人事業者を3度にわたり、鄧小平が自らの発言で保護した事例。傻子瓜子として名高いこの事件をとらえて、鄧小平は企業家を自らの政治権威を利用して中国に戻ることを要請し、その結果、事業を起こすことは再び中国人の権利になったのだとしている。pp.74-78
    三点目は価格改革(價格闖關)を多年にわたり推進したこと。これは計画価格と市場価格とに商品価格が二重化したこと(価格の双軌制)による、不正な儲けなどの横行に対する民衆の不満に対応して、価格の自由化を行おうとしたものである。この改革は、1988年7月においては貨幣の過多もあって失敗し、(趙紫陽失脚の一因にもなったが 福光追記)鄧小平は1992-1993年に再度これを実行させ、市場価格を経済制度の基礎にすることに成功した。pp.78-80
   四点目。大金持ちが生まれるとともに極端に貧しい人々がいる社会となった。そうした中で腐敗した官僚も現れている。このような問題に対して、政治体制の改革が不可欠だということを鄧小平は提起したが、それは彼が果しえなかった事業として残っている。pp.82-85

 なおこの論文は2年後に大陸で発行された周其仁の本に,巻頭論文の扱いで収められている。以下の通りである。周其仁《邓小平做对了什么》载《中国做对了什么》中国计划出版社,2017年,2-24 この論文を周其仁や出版社が重視していることが伺われる。
   またここで問題になっている鄧小平の業績については、大陸から香港の行政に送り込まれた郝鐡川(ハオ・ティエチョアン)による以下がある。おそらくは鄧小平を宣伝する意図で、鄧小平がどのように人権を扱ったかを説明する書物であるが、資料としていろいろ参考になる記述はある。郝鐡川《鄧小平與中國的民主,法制和人權》天地圖書有限公司,2011年。ただ香港の人々にすれば、人権に関して大陸より香港の方が進んでいるわけであって、鄧小平が認めたところまで香港の人権状況が後退するのは受け入れがたいことであろう。
 ここで指摘されている4点それぞれについて膨大な文献目録をつくることは可能だが、それも読み手の関心からはずれているかもしれないので、とりあえず3番目の価格改革について以下を上げておくだけにする。
 張卓元《中國價格改革三十年-成效,歷程與展望》中國改革信息庫http://reformdata.org  2015年10月6日閲覧

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