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袁世凱そして段祺瑞 1912-26

袁世凱統治下の中華民国 1912-1916                            福光 寛
 1912年1月1日、孫中山(スン・チョンシャン)は南京において中華民国の成立を宣言し、「臨時大総統」に就任した。しかしこの時点ですでに、袁世凱(ユアン・スウカイ)が清政府の打倒に協力するなら、袁世凱を総統にするとの協議が成立していた。これは実際のところ、袁世凱の助力がなければ、革命が成立しなかったことを意味するのかもしれない。(なお写真は右側が袁世凱 左が段祺瑞である。『毎日頭條』2016年8月28日掲載記事より転載した。)
 この宣言が行われた時点で清の皇帝は退位しておらず、つまり皇帝を中心とする国家は健在であった。武昌蜂起のあと、軍事的には清軍が優勢ななかで、1911年12月に反乱軍と清軍は停戦。決定権を事実上にぎったのは、11月に清政府の内閣総理大臣として政権に復帰した袁世凱だった。列強が、袁世凱を支持し、南京中華民国を支持しない姿勢も明確だった。
 袁世凱は清政府末期に、北洋軍事政治集団、つまり北洋軍閥の首脳としての地位を固めた人物で直隷総督兼北洋大臣。教育改革や商工業の発展にも貢献があった。
 しかしその立場は、1908年に光緒帝や慈禧太后が相次いで亡くなると、悪化し、表舞台から退場を余儀なくされていた。1911年10月10日の武昌蜂起(起義)は、袁世凱の再起の機会となり、袁世凱は内閣総理大臣に就任して(11月9日 資政院で選出。資政院は1909年に設けられたもので定数200.各省諮議局選出が100. 勅撰が100。つまり清朝は立憲君主制を目指すプロセスに入っていた。)軍事権を掌握。しかし革命軍と通じて、溥儀(プウ・イイ)の退位を迫り(退位は1912年2月12日)、立憲君主制ではなく共和制に賛成することで、1912年2月15日南京の臨時参議院(これは各省の都督府の代表から構成されていた)により中華民国臨時大総統に選ばれ3月10日に北京で就任している。
    よく指摘される論点は袁世凱が自身の政権の正統性の根拠を、各省都督府代表から構成された臨時参議院に選出されたことに求めたことである。
 3月11日に臨時参議院は憲法に代わる臨時約法を定め3月12日に正式に公布している。4月1日に孫中山は解職令を発表。南京臨時政府はここで終わった。4月19日に資政院があった場所において北京参議院(南京参議院の継承であるが、構成が異なり旧同盟会系の影響力が低下したとされる)が開会され、1912年8月までに国会組織法、衆議院議員選挙法、参議院議員選挙法などを可決成立させた。
(以下この時期の中国の政治が混乱してゆくのは、清朝政府の政治体制、軍事体制がまだ確固としているなか、軍を掌握する袁世凱が革命派と気脈を通じたことで、革命が思いがけず成功してしまったことが大きいように見える。また臨時約法自身が地方政府と中央政府の規定を欠くなどの欠陥があったとの指摘も多い)。
 しかしここから袁世凱は革命家たちと歩む道を分かれ始める。1912年末から翌1913年2月にかけて行なわれた第一回国会選挙で国民党(秘密結社であった中国同盟会が公開政党となり国民党を結成したのは1912年8月のこと)が議席で多数を占めて、国民党内閣を組閣、民主憲法を制定しようとした。袁世凱自身の権力が脅かされる可能性に袁世凱は反応した。
 この時の選挙は、有権者は21歳以上の男子で資格・財産制限があり、それでも有権者は人口の1割程度に達した。参議院は各省の省議会からの選出者を中心に268名、衆議院が596名を選出。衆議院で国民党系は307名、参議院で141名と推計されている(西村p.100)。国民党系は多数を占めたが、圧倒的多数といえるかは疑問がある。
 1913年3月20日、その主張の急先鋒である宋教仁(ソン・チアオレン)に対し、袁世凱は上海に刺客を送って重傷を負わせ、3月22日宋教仁はなくなっている。この事件のとき、日本にいた孫中山は、急遽、上海に戻り(3月26日)、「二次革命」を宣言するが革命に失敗し日本に亡命している(第二革命の鎮圧:1913年7月)。
 このとき第二革命のとき、国民党籍の都督が、挙兵したことは、袁世凱側にその後の国民党弾圧の口実を与えた。袁世凱は、議会では非国民党系を進歩党として団結させて国民党に対抗させた。袁世凱は1913年10月6日国会に対し自らを「大総統」に選出させて間もなく、第二革命時の行為を問題にして国民党を解散(11月)、さらに14年初めに議員定数不足を口実に国会議員に職務停止を命令、各省地方議会も解散した(3月)(西村pp.101-102)。
 1913年5月には中華民国臨時約法を廃止、内閣制を総統制に改めている。1915年12月には、各省人民が望んでいるとして(参議院を開会、各省の代表1993名が賛成する形式をとった)帝を名乗り、国号を中華帝国、年号を洪憲とした。しかしこの帝政は袁世凱の周囲でも不評で、袁世凱は孤立する(さまざまな任命権を中央に集中し、中央集権的国家をめざした。これに対し地方の進歩勢力が反発。共和政体を守れといったスローガンが出され、孫中山は袁打倒の檄文を発表している。北洋軍内部も動揺した)。
    宮崎市定は袁世凱のことを「古色蒼然たる旧人物」、「共和政治の意味も民主主義の性質にも何らの理解がなく、ただ権力の効用を信奉するのみであった」と評している。(宮崎p.282) 
    袁世凱がこのように道を誤った理由はどこにあるのか。彼を補佐したのは楊度(ヤン・ドウ)という人。この人は共和体制に反対し、君主立憲制を長年主張していた。張晨怡は、袁世凱自身に帝王思想があり、それが楊度の君主救国論を土台に実際の行動に発展したことを示唆している。それは結果として袁世凱の評価を下げ、中華民国が共和制に歩むことを徹底して遅滞させたとしている(嚴重滯緩了)。(張晨怡pp.14-15)

段祺瑞  登場から退場まで 1916-1926 
 1916年3月22日、孤立した袁世凱は、帝政、年号とも自ら取り消している。そして3ケ月後の6月6日、袁世凱は総統として在職のまま亡くなった。臨時約法の規定により、袁世凱がなくなった時、副総統の職位にあった黎元洪(リイ・ユアンホン)が6月7日総統に就任した。黎元洪は就任とともに、袁世凱が停止した旧国会も復活させた。また北洋軍閥の中心人物である、段祺瑞(ドウアン・チールイ)を国務総理とした。またもう一人の中心人物、馮囯璋(フェン・グオチャン)を副総統とした。なお北洋軍閥は三派あり。段祺瑞を中心に安徽省系(皖係)、馮囯璋を中心に直隷省系(直隷系 黄河下流北部を指す)、そして張作霖を中心に奉天系(奉系)である。なお張作霖は、東北三省を長く治めたので「東北王」と呼ばれた。このほか、北方の地方軍閥として、山西に閻錫山を中心とする晋系、さらに陝西に陳樹藩を中心とする勢力がいた。
 先ほど臨時約法の規定により黎元洪が総統に就任したと述べたが、これについては、新約法が規定する総統代行になったに過ぎないとの解釈もあり、黎元洪の合法性は万全でなかった。そこで黎元洪は旧国会を頼りにしたのであろう。
 この問題は、黎元洪が率いる総統府と、段祺瑞が率いる国務院との権限争いの面もある。1917年春、ドイツへの開戦をめぐり、段祺瑞が軍閥の意向を受けて開戦にむけて、国会の解散を求めると(5月19日)、国会を重視する立場の黎元洪は段祺瑞総理罷免に踏み切った(5月23日)。ところが、段はこれを受け入れず、各省に張作霖をはじめ各省に中央政府からの独立を宣言させた。困った黎元洪が頼った張勛(チャン・シュン)は、国会の解散を求めた。これに応じて黎元洪が国会を解散すると、各省は独立を取消、混乱は一時収束した。
 ところが7月1日、張勛は、黎に辞職を迫り、溥儀(プウ・イイ)を復辟させる政変を引き起こした。事態を収拾したのは、黎元洪が国務総理として再任した段である。黎元洪は辞職、副総統の馮囯璋(フェン・グオチャン)が代理民国大総統として北京に入っている(1917年8月1日)。( 辛向陽p.236  この事件については徐忱が詳しい。張勛は民国成立後も清朝に忠誠を誓い、公称5万の辮子軍を擁して徐州に駐在していた。段による指示に反して、張勛は独立を宣言していなかったので黎元洪は、張勛に上京させた。しかし張勛が復辟論者であることは明らかであったので、日本や米国の公使は懸念を黎元洪に直接伝えている。しかし黎元洪はこうした懸念に耳を傾けず、張勛による政変を招いている。徐忱pp.118-154)
   これに対して孫中山は旧国会メムバーとともに南下して、非常国会を組織して護法闘争を展開した(1917年9月)。このとき臨時約法などの護法に賛成して広州で開かれた国会非常会議に参加した議員は91名とされる。この会議は孫文を「中華民国大元帥」に選出している。
 つまり北と南で二つの国会がその正当性を主張する状況になった。この動きに段祺瑞は「武力統一」を唱えたが、これを独断専行とみた馮囯璋は「和平統一」を唱える。そのためもあって段祺瑞の「武力統一」の動きは失敗。段はここでその責任をとって、一旦、国務総理を辞している(17年11月16日)。なお翌年3月総理に復帰している。
 段祺瑞は袁世凱の帝政に反対したほか、溥儀の復辟にも反対した点では共和制支持だが、その意味で共和制を守った英雄とも称されたが、旧国会を支持はできなかった。各省からの指名で構成される臨時参議院によって新国会組織法が制定され、1918年2月公布。5月に衆議院選挙、6月に参議院選挙が実施された。衆議院が325名、参議院が147名、そのうち、買収により、段祺瑞を支持する安福系330名あまりと圧倒的多数を占める議会=第二回国会(新国会)が成立した(西村pp.102-103 金子p.69)。段祺瑞は、自分の政権運営を妨げない議会を望んでいたわけで、本当の意味での共和制論者ではなかったのであろう。
 この国会で中華民国総統に選出されたのが、徐世昌(シウ・スウチャン)である(1918年10月10日)。
 この人は詩や書画に明るい文人ではあるが、もともとは清国で高官だった人で、袁世凱と親しかった。詩や書画に精通していたので「文治総統」とも呼ばれる。その徐世昌が総統になって間もなく起きたのが、五四運動である。この人を総統に推薦したのは馮囯璋。徐世昌は軍閥の代表者たちの信頼も厚かったので、軍閥間の調停役を期待された。また南北の政府間の調停でも役割を期待されたが、しかし結果として、十分な役割をはたせないままに一次直奉戦争(1922年)のときに辞任している。
 直奉戦争は、直隷派(曹錕  吳佩孚)と奉天派(張作霖)という二つの軍閥間の勢力争いである。1922年の一次戦争(1922年)は直隷派。二次戦争(1924年)は奉天派がそれぞれ勝利したとされる。
 一次直奉戦争(1922年)は、総統の徐世昌が張作霖の指示に従い梁士飴を国務総理として組閣させたことに原因がある(張作霖の側は直隷派の勢力増大に不満があった)。これに 吳佩孚(ウウ・ペイフウ)は激しく反発。ついに戦争になった。 曹錕(ツアオ・クン)、 吳佩孚(ウウ・ペイフウ)はその後、 徐世昌を責めて辞職させる。この 徐世昌が辞めたあと、総統の地位についたのは、5年前にその地位にあった黎元洪である。
 主導権を握った吳佩孚は法統の回復を主張し、1922年8月、旧国会は再度復活する(吳佩孚による法統つまり臨時約法、旧国会の回復は、戦略的に自身が主導権を握ろうとするものだったように見えるが、他面で黎元洪の総統の地位の合法性を、臨時約法、旧国会に求めたものにも見える。ところが、以下にみるように結果として曹錕が、総統の地位をカネで買う事態が生まれる。吳佩孚は曹錕をもっと直接牽制すべきであった。)。
 背景には曹錕が総統の地位を欲しがっていることへの吳佩孚の牽制があった。「臨時約法」・旧国会の回復、黎元洪大総統の再任。これらにより①徐世昌の退任、②護法運動の勢いを抑える、③省の自治派に打撃を与え、さらに④曹錕を抑えることができる、と吳佩孚は考えたとされる。こうして1923年5月14日、吳佩孚は各省に国会回復を打電、6月11日には黎元洪を復職させ、8月1日には旧国会を北京で再開させた。ところが曹錕は、国会に対し露骨な買収を行い総統の地位を狙った。出席議員一人を5000元という高額買収。曹錕は、衆参合計593票中480票を得て、堂々と国会で選出された総統になった(1923年10月5日 西村p.205   なお旧国会は参議院268名 衆議院596   合わせて864名である。593名はそれぞれの半数以上を集めた数といえる。)。「買収で選ばれた総統(賄選總統)」とは曹錕のことである。この買収事件は、旧国会への幻想を打ち砕く事件でもあった。(辛向陽pp.232-233)
 曹錕への批判の高まりをみた、張作霖は再び戦争をおこした(1924年の二次直奉戦争)。これは地方勢力の中央軍閥への挑戦とみることもできる。
 このとき、曹錕  吳佩孚に不満を持つ直隷派の馮玉祥(フェン・ユーシアン)が張作霖と連携して、北京政変を起こし(10月23日)、曹錕を幽閉し、吳佩孚も免職,そして広州にいた孫文(孫中山)に北上を促した。馮玉祥は、さらに紫禁城に押し入って,溥儀に3時間以内の退去を命じた。溥儀は紫禁城を退去し、清朝はここに名実ともに終わった(馮玉祥はかつて1918年2月にも段祺瑞の命令で護法軍討伐に向かいながら、実質的にその命令に従わないことがあった。1924年の場合は、はっきりした造反である。これは北洋軍閥のなかにも曹錕  吳佩孚らとは異なり、孫文たちと連携する動きがあったと読める。ところで買収事件は、共和制が重視する民意をどこで測るかという問題を改めて提起したといえる。たとえば民意を必ず議会が代表するとしてしまうと、買収された議会が選んだ賄選總統を認めるのが共和主義だということになりかねない。しかし逆に民意は正しい判断をできず、英明な指導者のみが正しい判断を下すことができ、国家を指導できるというのは、君主制への逆戻りになる。では誰なら正しい判断をくだせるだろうか)。
 張作霖、馮玉祥らは段祺瑞を「中華民国臨時執政」とし、総理そして総統権限を併せ持つとした(11月15日)これについて辛向陽は、臨時執政府というのは法律の根拠を欠いており、軍閥各派の妥協の産物に過ぎない。これは中央政府の権力の「虚在」、地方実力の「実在」を示しているとしている。(辛向陽p.235)なお宮崎は「奉天軍は馮玉祥に迎えられて北京に入ったが、民心が服しないのをおもんばかり]」、下野していた「段祺瑞の出馬を求め、北京政府の臨時執政に擁立し、彼の手によって全国的に平和恢復を計ろうとした。」とまとめている(宮崎p.295)
 なお孫文が北京に入れたのは12月末。しかし段祺瑞と張作霖が組んで、馮玉祥を追いつめるように、北京の情況は変化していた。加えて体調を崩していた孫文は1925年3月12日になくなり、南北の和解統一は成立しなかった。
 段祺瑞は1925年4月に法統の廃棄を宣言、旧国会は解体された。他方、広州では1925年7月1日、広州国民政府が成立。南北二つの政府の主導権争いは新たな段階に入った。曹錕による旧国会買収(1923年)の経験を経て、旧国会への幻想は広州の側でも完全に放棄された(旧国会の清廉さへの幻想が消えたことで、武力によって北部の軍閥を征伐して、国家を統一することが残された選択肢になったのではないか)。なお、段祺瑞が、やがて隠棲する一因として、学生の抗議活動に対する武力弾圧がある。1926年3月18日に起きた弾圧事件では47名もの死者、150人余りのけが人がでた(三一八慘案)。段祺瑞はこの惨劇に衝撃をうけたようだ。間もなく、政治からの隠遁を望むようになる。
    三一八慘案は臨時執政府への不満を高め、事件から1ケ月後、駐北京の国民軍が臨時執政府を包囲し、段祺瑞は逃げ出し、その後、天津に移り住んだ。執政府を倒したのはこの事件である。またその後、悔悟の態度を死ぬまで続けた、と張晨怡は記述する( 張晨怡p.243)。
 1926年7月、蒋介石は北伐戦争を開始する。他方、馮玉祥は、1925年に入ると再起した吳佩孚が張作霖と組んだことで軍事的に追い詰められ、1926年にはソビエトロシアに入っている。そしてロシアから帰国後、大きく変身する。1926年9月、自身の軍隊を国民党軍に変え、蒋介石の北伐に参加する形で、国民党軍の中核として軍閥と対峙するのである。

資料 辛向陽《大國諸侯》中國社會出版社1996年
   川島真『近代国家への模索 1894-1925』岩波新書2010年
           張晨怡《教科書裏沒有的民國史》中華書局2012年
   徐忱《黎元洪畵傳》中華書局2013年
   宮崎市定『中国史(下)』岩波文庫2015年 底本は1993年出版
   岸本美緒『中国の歴史』ちくま学芸文庫2015年 底本は2007年出版 
   西村成雄『中国の近現代史をどう見るか』岩波新書2017年
   ユン・チアン 土屋京子訳『ワイルドスワン』講談社+α文庫2017年
           金子肇『近代中国の国会と憲政ー議会専制の系譜ー』有志舎2019年
           岡本隆司・石川禎浩・高嶋航『梁啓超文集』岩波文庫2020年
   
新中国建国以前中国金融史

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