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抗日戦争期間の中央銀行 1937-1945

 區慕彰     羅文華《中國銀行業發展史  由晚清只當下》香港城市大學出版社2011年pp.72-76

p.72  1937年7月7日 盧溝橋事変後、中日戦争は全面的に広がった。この戦争は1945年米国が日本の広島に向けて原子爆弾を投下し、日本が無条件降伏(投降)を宣言(宣佈)するまで続き第二次大戦が終わった。この間8年、中国人民は長期にわたり粘り強く(不懈)抗日戦争を進めた。
   戦争中、中国金融は時代の変化とともに変化した。1937年8月、すなわち戦争が正式に始まって1ケ月後、戦時突発後の金融緊急情況に対応するため、国民政府は、中央、中国、交通、中国農民の4つの銀行を協調させて「四聯縂処」と略称される連合事務所を設け、全国すべての金融大権を四聯縂処にあつめ、蒋介石に四聯縂処理事会主席を兼任させた。縂処はもともとは上海に設置されたが、同年末に上海が敵に占領されると、まずは武漢、それから重慶へと国民政府に従って移動し、国家金融指導機構となった。
 「戦時健全中央金融機構辦法」の規定により、四聯縂処は「政府の戦時金融政策そして関連する各特殊業務までの処理に責任を負い」「財政部は非常時期の中央、中国、交通、中国農民銀行に対する便宜措置並びにその職権の代行を縂処理事会主席に授権した」。かくして四聯縂処は四行の間の連絡、協調の処理機構になっただけでなく、四行を指導、監督、審査する指導機関であった。1942年に中央信託局、郵政儲金匯業局もまた同処の監督管理をうけることになった。
 このほかその理事会(蒋介石、孔祥熙,宋子文を含む)はさらに戦時金融政策立案(擬制)と関連する特殊業務処理の責任を負い、四大銀行の本店の重慶への移転、西南,西北金融網内の設立、外国為替(外匯)審査の集中、鈔券印刷の統一計画(統籌)、軍政支払い項目の支払い(調撥軍政款項),生産事業貸付及び投資の検討実施(核辦)など。事実上、四聯縂処決して単純な金融機構ではなく、重要な中央政策決定機構で、金融、経済の領域で重大な作用を発揮、蒋介石は「経済作戦の大本営」と説明している(喩)。
 四聯縂処の指導と監督の下、抗戦期間に重慶の金融は迅速に発展した。金融方面では中央クラスの四行二局(中央銀行、中国銀行、
p.73   交通銀行、中国農民銀行と中央信託局、郵政儲金匯業局を指す)がすべて重慶に移転されたほか、金城銀行、上海商業儲    銀行、大陸銀行、中南銀行、四明銀行など外省の多くの著名銀行は本店を重慶に移すか、重慶に支店(分行)を設立した。金融は繁栄し、戦時首都の重慶とすべく、ほとんど毎月一つあるいは複数の銀行が開業した。重慶は戦時発展により全国金融の中心となった。金融機構の数が増えただけでなく、主要には金融資本が増加した。資本の激増と流通は、重慶のその他各産業(各業)の発展と進歩を促した。
    蒋介石本人は四聯縂処理事会主席を担当し、四聯縂処の政策決定と権力の運用を通じて、対内的には中央、中国、交通の三大銀行を統制し、対外的には金融、経済の独占(壟斷)を強めた。当時蒋介石とともに一大権力を得たのは行政院副院長、財政部部長の孔祥熙で、彼は同時に中央銀行総裁を兼任し、その後また四聯縂処副主席を担当、間もなく代理主席(代主席)となり、当時の中国経済金融の動脈をほとんど統制した。ついでに言えば、四聯縂処の会計長、楊汝梅、彼は米国に留学し、経済学博士号を取得した。1948年に香港にまず新亜学院、その後成立した香港中文大学と浸會學院で教壇に立った。
   (楊汝梅 1899-1985 ミシガン大学で学位を得た。各大学で会計学を講じたほか商学院院長などを務めている)
 抗戦時の中国では、蒋介石国民政府が発行する法幣のほか、日本もまた占拠区域で軍票を発行した。軍票は日本政府が発行する日本軍軍用(軍餉)の貨幣であり、1904年の日ロ戦争中に早くも使用された。その後、日本が対外用兵時常に軍票を用いた。太平洋戦争時、日本は中国、フィリッピン、マレーシア,ミヤンマーなどの占領地区で軍票を大量に発行し、占領地区の住民に軍票を貨幣として使うこと(兑换)を迫った。軍票発行時に兌換するための保証金は置かれず、特定の発行所もなく、軍票は日本円と兌換(交換)できなかった。それゆえ、日本政府のこの行為は占領地経済を支配し、占領地の富を略奪する一種の手段である。
 蒋介石国民政府の「法幣」、日本発行の「軍票」のほか、汪精衛偽国民政府発行の中儲券もまた流通貨幣であった。汪精衛について、とても多くの中国人の第一の反応は「大漢奸(裏切り者)」だというもの。実際は彼は若い時は革命家であった。辛亥革命の前、清朝摂政王戴灃暗殺に失敗し死刑に処せられるも、のちに
p.74   終身監禁に減じられた。辛亥革命成功後、釈放され革命党に加わり、多くの要職を歴任、孫中山の信任を得て、孫中山の遺言(遺囑)の起草者(草擬者)を務めた。彼は国民政府の主席及び国民党副総裁となった。しかし日本が中国を侵略していたとき、彼は日本帝国主義の軍事進攻と政治勧誘に屈服し、日本軍の庇護のもと、1940年3月30日、南京に正式に「中華民国国民政府」を設立、日本が提起した「大東亜共栄圏」に加入し、多くの親日反共政策を実行した。
 汪精衛偽政府は統治権威確立のため、日本に対し中央銀行設立を提起、幣制の統一により旧法幣駆逐し、重慶国民政府の華中地区の政治影響力取り除こうと、新貨幣発行を支持実現した。始めようとしたところ、日本は損失や自身の日本貨幣(軍用票を含む)の利益を気にして消極態度をとったが、のちに汪精衛偽政府が設立した中央銀行の積極支持に転じた。
 1940年12月、汪精衛偽政府は正式に中央儲備銀行設立を決議した。日本は顧問を派遣し金融援助を行った。日本の最高経済顧問青木一男が策定した計画のもと、上海に中央儲備銀行The Central Reserve Bank of Chinaが設立され、中央儲備銀行券が発行され、上海金融市場を統制し、貨幣資源(すなわち重慶国民政府発行の法幣)の獲得することが意図された。中央儲備銀行資p.75  本準備は1億元、日本により関税から6-700万元が中央儲備銀行に配備され、その他の資本は華興商業銀行からの借り入れであった。日本は中央儲備銀行券の印刷を引き受け、合わせて中央儲備銀行に5億円を信用貸付した。中央儲備銀行は前後して蘇州、杭州,揚州,廣州,廈門など多くの地方に支店機構を設立した。日本の東京にもまた事務機構が設立された。こうした日本政府の実効(権利)指導のもと、汪精衛政府は大量の富を召し上げ(聚斂了)華中、華南におけるその中央銀行の地位を確立するべく幣制統一活動を開始した。日本もまた中央儲備銀行を利用して、占領区を間接統治し、さらに多くの経済利益を奪取した。
    抗日戦争が持久段階に突入するとともに、経済の実力の重要性は次第に顕著になった。それぞれの政府は敵の経済力を弱め自身の経済の実力を高める戦略をとった。戦場で硝煙が充満しているとき、経済戦場では三種の紙幣が上海で「鉄血」の金融戦を展開していた。とくに日本の軍票と汪精衛偽政府の中儲券は、連合して法幣に対抗した。当時日本政府は不正な売買で外国為替と交換できる法幣により軍用物資を得ようとし、これにより蒋介石政府を抑えようとした。この作戦に対して、重慶に退いていた重慶政府は法幣の信用を維持するため、英米列強の財政援助をえて、法幣の外国為替市場での貨幣価値の安定を図り、日本と偽政府発行の貨幣の衝撃に対抗した。
 偽政府の中儲行設立に、重慶国民政府は厳正に対峙した(嚴陣以待)。四聯縂処は上海の四銀行の現金を一律次第に回収することを決定した。四銀行p.76  の銀行券は等しく外国為替を購入できるからである。かえてその他八大商業銀行の銀行券(鈔票)が流通に投入された。同時に上海の中外銀行界に中儲券に全面抵抗が通知された。この期間、重慶政府と汪精衛偽政府は、恐怖手段すら用い、殺人事件(數宗銀行血案)が引き起こされた。同時に英米は中国法幣を支持し、平准基金會を設立し、抗戦時期の上海外国為替市場の安定を極力保証した。一連の措置により、軍事上不利な重慶政府はなお安定した法幣制度を維持し、一定程度日本の経済目的に対抗したのである。
    抗日戦争が終わると、四聯縂処の作用は次第に弱まり、1948年10月正式に終了が宣告された。抗戦期間、四聯縂処は国民政府の経済を安定させた。1945年8月15日、日本は無条件投降を宣布。汪精衛政権もこれに従い瓦解した(垮台)。中儲券も使用が停止された。日本軍が発行した軍票、これはすべて紙屑になった。中儲行は蒋介石集団にとり汪精衛偽政権集団から引き継いだ最も重要な金融機構となった。中央銀行がこれを接収、政治上の意義だけでなく、重要なのはその巨大な経済価値だった。

新中国建国以前中国金融史

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