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聞一多の暗殺 1946/07/15

 中国の民主化運動の担い手の一人であった聞一多(1916-1946)は国民党の特務機関によって、雲南で暗殺されたとされる。直前の李公樸の暗殺とともに、民主派の人々まで暗殺したとして、蒋介石=国民党への内外の批判が高まった事件である。この事件の結果、国内でも海外でも、国民党の強権的なやり方を批判する意見が一挙につよまり、結果として国民党が中国で政権党になることをこの事件はつぶすきっかけになったとの評価もある。そこで果たして、そうした稚拙な手段を蒋介石が本当にとったのかという疑問がある。そこで共産党陰謀説も出てくる。大陸でも少なくとも蒋介石の指示という説は事実に反すると最近の研究は指摘している。(写真は中央大学理工学部方面から文京シビックセンター方面に向かう富坂の歩行者用通路。右側に少し見えているのは東京都戦没者霊園入り口。)。
 なおこの暗殺の当日、聞一多が行った有名な講演が「最後一次的講演(1946年7月15日)」(『聞一多精選集』北京燕山出版社2016年pp.341-342)である。これは直前の李公樸刺殺を非難する激烈な内容で、直後の自身の暗殺を予感するかのように「我々は死を恐れない」と結んでいる。
 ところで中国の近代史を見たときに、胡適や林語堂などの海外に名の知れた知識人が、中国国内で影響力がなかったことが気になっていたが、『聞一多精選集』を眺めていて、このことに触れた小論「文芸的民主問題を論ずる」(執筆は1944年頃と推定できる)を見つけた(《論文藝的民主問題》載《聞一多精選集》北京燕山出版社2016年pp.330-332)。そこに以下のように記されていて、なるほどと思った。中国から長く離れている胡適や林語堂の、自分の身を危険にさらすことなく(また中国社会の矛盾に触れずに)、きれいごとを並べる行為は、中国に残って現実と戦っている中国の知識人からすれば、実に腹立たしかったのだろう。

p.330  外国の友人はしかし本当に中国を理解したいと考えていた。たとえば別のある米国の友人は私(=聞一多 訳注)に言った。生きている中国人民をよく見るうえで、現在米国には中国に代わって話をする人は三人いる。一人は遅れてしまった(落了伍的  落後してしまった)胡適,一人は国際文芸
p.331  投機家(=文芸で私利を図る者、ここは売文家の意味か 訳注)の林語堂、一人は感傷的な女の賽珍珠である。かれらの文章はいずれも中国の真実を表現できない。中国の農民が田で耕作するとき如何に愉快であるか、さらに中国の刺繍や磁器がいかに高貴であるか、を描写している林語堂の文章を読むたびに、彼(=別のある米国の友人)はとても腹立たしくなり、この博士(=林語堂)の著作を破り捨て、壁の角に投げ捨てた。私はこれを聞いて、感激して彼に手を差し出して言った。「あなたは私が出会った希少な(有少的)米国人だ!」

#聞一多 #胡適     #林語堂    #富坂

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