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Mikhail Gorbachev 1931-

ゴルバチョフ By John Simkin
Cited from spartacus-educational

 Mikhail Gorbachevは集団農場の農業機械工の息子として、1931年3月2日ソビエト連邦のPinvolnoyeに生まれた。
 ゴルバチョフの祖父Pantelei Yefimovich Gopkaloaloは共産党の忠実なメムバーで、村のkolkhoz(集団農場)の議長だった。1937年に彼は、NKVD(秘密警察)により逮捕され、Leon Trotskyを支持する地下組織のリーダーだと告発された。2年近く続いた拷問と投獄のあと、祖父は1938年12月に釈放された。
 回顧録の中でゴルバチョフは、この出来事を彼の政治的発展に劇的な衝撃だったと述べている。彼の祖父はなお熱心な共産主義者であり、孫に(レオン・トロッキーのものは除いて)カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルスそしてレーニンの著作を紹介した。
 第二次大戦の間、ゴルバチョフの村はドイツ軍に占領された。彼はのちに以下のように書いた。「私が14歳のとき戦争が終わった。我々の世代は戦時に子供だった世代だ。戦争は私たちを焼いて、その性格と世界観の双方に印を残したのだ。」
 ゴルバチョフはモスクワ大学で法律を勉強する前は、コンバイン(刈り入れ複合機)の操作者として働いた。学生の間にゴルバチョフは共産党に入り、Raisa Titorenkoと結婚した。
 大学を卒業後、共産党の青年組織であるKomsomolのフルタイムの事務官になった。1955年に彼はKomsokol Territorial Committeeの第一書記に任命された。ゴルバチョフは急速に昇進し、1960年にはStavropolのKomsokol事務官のトップになった。翌(1961)年彼はモスクワでの第22回党大会にStavropolからの代議員として出席した。
 ゴルバチョフはStavprol Agricultural Institution(1964-67)で二つ目の学位(a second degree)を取得し(studied)、1970年にStavpropol Terrotoryの第一書記に任命された。この立場での仕事は、当時KGBのtopだったYuri Andropov(ハンガリ―動乱の鎮圧に関与、1982年ブレジネフ死去後、総書記に就任。ロシアの改革に積極的だったとされる。)を感心させ、アンドロポフはゴルバチョフの地位の引き上げに影響力を行使した。
 1971年にゴルバチョフは共産党中央委員会のメムバーになった。その後、彼はモスクワに異動し、農業省の次官になった。1980年にゴルバチョフはPolitburoの最も若いメムバーになり、4年間のうちにKonstantin Chernenko(1911-85  ブレジネフに近かったが、1982年ブレジネフ死去時、アンドロポフに総書記を譲る。1984年アンドロポフ死去後、総書記に就任するが病気のため辞任。)の副官deputyになった。
 1985年Chernenkoの死去によりゴルバチョフは中央委員会により共産党の総書記に選出された。党の指導者として彼は、すぐに中央委員会の保守的メムバーに辞職を求めた。彼は彼らを、彼と改革ビジョンを共有する若い人々に置き換えた。
 1985年にゴルバチョフは腐敗と飲酒(alcoholism)に反対する一大キャンペーンを始めた。彼はまた、ソビエト経済をより効率的にするため、ペレストロイカ(再建)の必要を語った。これは、経済、政治、文化の改革で、自由化を進める前触れとなった。
 (訳注 なお史上最悪の原子炉事故とされるチェルノブイリ原発事故は1986年4月25日-26日生じている。技術者が実験を進めていたところ、核分裂が制御不能になり原子炉の爆発に到り、大量の放射性物質が大気にまき散らされたとされ、直接の原因として実験の設計が安全管理の面で杜撰だったと指摘されている。) 
 ゴルバチョフは、ソビエトの工業と農業での私的所有権を強める(encourage)ことで、市場経済確立を図る政策を導入した。しかしソビエトの権威主義的構造は、これらの改革を無効(ineffective)にし、店舗では商品が不足することになった。
 ゴルバチョフはまたソビエトの対外政策の変更を表明した。1987年に彼はRonald Reaganと会い、Immediate Nuclear Forced abolition treatyに署名した。彼はまた東ヨ-ロッパの国内政策にもはや干渉しないことを明確にした。続く数ケ月のうちに、共産主義者は、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、そして東ドイツで権力を失った。
 ソビエト連邦をより民主的な国にしようとする、ゴルバチョフの試みは、まだ権力をもっていた保守層に彼を不人気にした。1991年8月、共産党内の保守強硬派hard-linersが組織したクーデターを彼は生き延びた。彼はこれに中央委員会の解散で対抗した。しかしソビエト連邦がばらばらの国家に分裂するなか、ゴルバチョフは1995年(訳注 1991年の間違い)12月25日辞任した。

徹子の部屋 2001年11月23日

根本 ペレストロイカ以降のロシアの経済体制について 協働2009/04

吉川顕麿 市場経済移行と今日のロシア資本主義 金沢星陵大学論集2018/03

渡辺信 僕は見た国の消滅を NHK政治マガジン2020/01/22


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