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劉国光「私の回顧と展望」『中国社会科学網』2017年4月12日

 以下の文章は《我的一些回顧與展望-訪著名經濟學者劉國光研究員》載《中國社會科學網》2017年4月12日(www.cssn.cn)の冒頭3分の1を訳出したものである。劉は1923年生まれ。西南連合大学経済系を1949年卒業。その後、清華の研究院に進んだとネット上の資料には出ている。しかし以下の本人の弁によれば大学卒業後、南京の中央研究院社会研究所にただちに入職したことになる。また同じくネット上ではソ連には1951-55年まで留学、副博士号を得たとある。

<中国社会科学法報(社科報)>:先生は、ソ連で経済学を学んだ最初の(首位)留学生だと思うのですが、先生はいつ中国社会科学院の仕事に参加されたのですか。
(劉国光)新中国が成立する前、ソ連留学の前に、私は南京中央研究院社会研究所で働いていました。南京中央研究院社会研究所は、のちの中国科学院経済研究所の前身で、新中国成立後、設立された中国科学院の管轄下に入り、(まず)中国科学院社会研究所に改められ、北京に移転しました。1953年にさらに中国科学院経済研究所に改称されました。1954年に中国科学院は学部委員制を敷き、哲学社会科学部が設立され、学部が各研究所を管理するようになった。
 1951年に私は中国科学院からソ連モスクワの経済学院での学習に選抜派遣されました。当時、社会研究所の巫寶三は国内で収入分配を研究するもっとも権威のある経済学者であったが、彼は私がソ連に選抜派遣されることを知って、私に(ソ連で)国民経済バランス(平衡)を専門の研究領域とすることを提案した。これはソ連の計画経済の最も重要な手段であった。帰国後、私は経済研究所で学術秘書を担当したほか、国民経済バランス研究組副組長などの職を務めた。

忘れがたい4人の学者
<社科報>先生は、社会科学院の仕事の経験の中で、学術研究に従事されて印象深いことは何ですか。こうした仕事を経験された中で、最も深い影響を受けた人と事柄は何ですか?
(劉国光)四人組が粉砕されてのち、哲学社会科学の振興発展(繁和和発展)が差し迫って必要でした。1977年に中国科学院哲学社会科学部の基礎上に中国社会科学院が設立されました。このわずか数年のうちに、雨後の筍のように20近い研究所が設立され、発展はとても急速でした。1982年に私は経済研究所から院部指導職務に移動し、あわせて経済研究所所長を兼任、主として経済方面を担当しました。1994年に退職、改めて社会科学院特任顧問(特邀)に任ぜられました。私は人生の大半を社会科学院で仕事をしてきたと言っていいと思います。
 社会科学院において、私に最も大きな影響を与えた人に孫冶方を上げねばなりません。あまりに多くの事柄があり、とても詳しく述べることはできないほどです。孫冶方(当時、統計局副局長。以下の記述では、研究所に次期所長の含みで入所は1957年。正式に所長就任は1958年と思われる。)の最大の特徴は自ら研究をしていたことです。また我々が研究することを励ましていました。彼が研究所に来てから、学術的雰囲気はとても活発になりました。ほどなく1957年末のことですが、統計局はソ連の専門家スオボリ(索波裏)に来訪を願った。スオボリの講義内容はまさに私が学んだ国民経済バランス問題であり、当時、統計局副局長だった孫冶方は、私を、この連続講座の翻訳と講義原稿整理の責任者とした。スオボリの講義は的確で、当時の国民経済比例関係の調整、そして価値規律の研究を、とても多く啓発するところがあった。1958年に孫冶方が(所長に)就任後は、私は学術秘書に任命されて彼の仕事を助けた。また国家計画委員会世界経済調査室からは楊堅白、武漢大学からは董輔礽をそれぞれ招聘して国民経済総合バランス研究組を準備した。楊堅白が組長となり、私と董輔礽は副組長となった。1958年末から1959年初め、私は孫冶方に従ってソ連、チェコスロバキア(捷克)を2ケ月かけ訪問、多くの人と会い帰国後『訪ソ報告』を書いた。帰国後、孫冶方は経済研究所内に数量組を組織した。これは中国計量経済学の始まり(搖籃)といえる。1960-61年、孫冶方は「社会主義経済論」を書く研究人員を組織した。我々は執筆と討論に時間と人員を集中したが、私は主要起草者の一人だった。孫冶方は私が書いたその中の一章をとても評価し、全原稿の中で最も良いと考えた。孫冶方の一連の学術活動に私はすべて参加した。まさにそうだったので、「文革」において我々は批判された。孫冶方は入牢の災難にあった。私は孫冶方の真理を堅持し、権威を恐れず、あえて突破する精神をとても敬服している。(それは)私の学問に深い影響を与えている。
 (私に大きな影響を与えた)もう一人である薛暮橋は、わが党のマルクス主義経済理論研究の元老の一人で、統計局長を務めた。彼は一貫して、経済研究所の仕事に関心を寄せ、理論研究と実際との結合を促進し、(理論研究に)実践活動提供を強く支持した。(改革開放後の)1979年に彼が統計局をそして孫冶方が経済研究所を代表して、無錫で商品規律価値規律理論研究討論会が招集開会された。これは最初のとても重要な学術会議で、経済活動のイノベーション(創新)を推進する力がとても大きかった。この会議に私も参加した。改革開放以後の20余年の中で、私は彼と何度も接触の機会があったが、彼は私の幾つかの学術上の観点を強く支持した。1988年3月中共十三届二中全会の時に、私は「通貨膨張問題を正視せよ」と発言した。反響は強烈で、反対の声もまた激烈だった。薛暮橋は特に私に手紙を送り、私の観点に賛成し激励した。同年11月、薛暮橋、私そして吳敬璉は一緒に招かれて、中央指導者同志(趙紫陽のことだろうか? 訳者)と対面し、経済形勢と物価問題について話した。薛暮橋は、通貨膨張政策に反対し、物価「闖關」(物価の一斉調整)をすべきでないと主張した。彼は経済学界の大先輩であり、この方面で私にとても大きな精神的支持と鼓舞を与えた。
 もう一人は于光遠である。1975年「文革」がまだ終わっていないとき、彼は社会科学院経済研究所の我々「この一群(這一伙人)」が計画委員会研究所に行き研究工作を継続できるように計らった。当時の条件下であの環境は格別によかった(得天獨厚)。正に彼の配慮により我々は研究業務を先行して回復できた。このことについて、私はいつも感謝の気持ちを忘れたことはない(感念不已)。
   最後の一人が楊堅白である。我々は一緒に国家計画委員会の調査研究に参加し、遼寧, 河南、山西の調査に参加した。これらの調査研究は「大躍進」後の三年回復初期のことで、印象は大きかった。私にとり、のちの社会再生産と総合バランスの理論研究にとても大きな影響があり、調査研究の方法においても、とても大きな助けになった。(以下略)

参考  劉国光 辯證地看中國改革三十年   香港中文大學2008年10月23日


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