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馬洪「国民経済現代化の諸問題」1980年3月14日

關於國民經濟現代化的若干問題   1980年3月14日 国家計画委員会経済研究所が開催した国民経済現代化標示的座談會での発言。《馬洪改革論集》中國發展出版社2008年,pp.46-50, esp.46-49 (写真は成城大学にて。左側に8号館。右は5号館)

 現代化の概念は不断に変化する。条件によって変わるもので(是相對來講的)、発展する概念である。時期が違えば、異なる現代化がある。歴史を回顧すればこのことは明らかだ。工場手工業に比べれば機械制大工業がそうであるし、個人手工業に比べれば工場手工業がそうだといえる。手工紡織機に対しては機械紡織機が、まさに現代化だといえる。我々が今日話している現代化はある形状であるが、20世紀末の現代化はまた別の形状である。第二次大戦以来、現代化の過程は何と迅速であることか。
 とても長い間、我々は工業化と現代化は一つの一緒に起きることと捉えていた。工業化と現代化は関係があり、工業化は現代化の重要な内容であるが、工業化は現代化と同じではない。ソ連のスターリン時代、ただ工業化が言われ現代化は言われなかった。彼らは第一次五年計画の時期に工業化を戦略目標とし、国家の路線とし、工業生産価値が、工農業総生産価値の70%にすることで工業化が実現したと、考えた。われわれもかつてはこの概念を継承(承襲)した。1953年に毛沢東同志は過渡的総路線を提起した。その内容は一化三改(社会主義工業化、そして農業、手工業、商工業の社会主義改造のこと。福光)で、工業化を現代化の標識(標志)とするものであった。1957年に彼は党の全国宣伝工作会議で講話を行い、三化(これが何を指すかはにわかにわからなかった。)を提起したが、国防現代化は提起しなかった。1956年に劉少奇同志による党の八大政治報告とそこで行われた決議、周恩来同志が党の八大で行った第二次五カ年計画の報告。すべて工業化を完成すること、農業国を工業国に変えることを奮闘目標としている。なるほど現在我々は四化(これは1954年の第一次全国人民大会以来、話題になる4つの現代化のこと。工業、農業、国防、科学技術における現代化を指す。福光)を提起している。いつも工業化と現代化は同時に提起されているが、現代化と工業化は一つの(同じ)概念ではない。この問題は、討論して明確(清楚)にされる必要がある。
 現代化の標識(標志)と現代化の概念は関係している。現在世界では現代化の標識については多くの言い方がある。労働生産率(性)を捕まえること、人口あたりの平均計算した国民収入、文化水準、先端技術などはいずれも現代化の標識とされている。我が国についていえば、長年現代化概念の標識とされてきたものの一つは工業の比重の大きさ(大小)、二つは鉄鋼生産量の大きさ(多少)である。工業の比率から見れば、現在わが国の工業はすでに70%を占めている。農業が30%である。ちょうど1949年と(両者の数値は)真逆であり、ソ連が宣伝実現したとする工業化の水準と同じである。もし工業化が現代化ならば、我々はすでに現代化を実現している。しかし工業の比重の大きさを標識とはできないことを知るべきだ。かつて鋼鉄生産量の大きさを(誤って)標識としたときも、最初は鋼鉄の生産量を標準とするとされ、1959年鄭州会議前にはまたある人が一人一トンの鋼鉄の標準を提起した。当時米国の鋼鉄生産量は7000万トンあまり、ソ連が5000万トンあまり。わが国は大国であるから1億トンの鋼鉄がなくてどうすると。そこで1億トンの鋼鉄を作ることが一つの目標、奮闘目標とすること。これはどうだろうか?おそらくだめだ。現実性も必要性もない。現在世界の主要資本主義国の鋼鉄生産能力が不足しているのではなく、過剰になっている。現在の稼働は70%前後に過ぎない。我が国の鋼鉄(生産能力?)は一面で不足しているが、一面では過剰(積壓)である。もし一人一トン、つまり10億トンの鋼鉄(を加えれば)世界の現在の鋼鉄生産量の総和をさらに増やすことになる。これは20世紀末までに達しないかどうか、来世紀にはこれは必要でないか、それらもまた研究に値する。現在世界にはすでに新しく経済的な、鋼鉄に代替するするものが現れている。同時に、鋼鉄生産量を現代化を実現する唯一の標識とできない。それはクウェート産石油があれほど多量にあるのと似ているが、同様に、我々は一つの指標だけで現代化をしたということはできない。ある人が提起している。2000年までに一人平均国民生産価値1000米ドルに達すること、これを目標にしようと。これは以前のいくつかの不正確な標識を否定した、総合的標識で、単一目標(單打一的)ではない。かつこの発想(設想)は比較実際的(実事求是)で、盲目的に実際からかけ離れた目標を掲げることにも一種の歯止めがかかっている。同時に、(それは)我々に長期的企画工作の方向を与えている。最終商品そしてそれに関係した最終収入から出発すること、国民経済の総合バランスを考慮すること。
 私は考えるのだが、この量の概念の標準のほかに、質の標準があるべきである。つまり生産力の要素が全面的に考慮されるべきだ。まずは労働力の質(質量)(たとえば肉体労働者と頭脳労働者の教育程度)と科学技術が現代化の水準に十分達することができること。次に労働手段の質は、現代の先進技術装備を国民経済各部門に装備するに十分であるべきだ。さらに労働対象の質は、現代化の技術と方法を用いて各種の物質資源、エネルギーそして原材料を含むものの効利用に十分であるべきだ。現代化は国際的(性)概念であって、国際的に認められるのでなければならない。これはあなたの商品が世界の一流品に入っているということである。生産力の各要素が高い質で、高い水準なら、製品もまた高質、高水準でありうる。ある人は鋼鉄はこのような製品だと話している。しかし一般的に言えば、鋼鉄は最終製品ではない。ここでいう高質、高水準の製品として、最も主要なものは機械設備であるが、電子計算機など電子工業製品を含み、各種の耐久消費財を含んでいる。
 ここでとくに電子工業について話す必要がある。電子工業の発展は以前の工業革命同様に、経済メカニズムと科学技術に時代を画する変化をもたらしている。工業革命は機械エネルギーを基礎として発揮されるが、電子技術はわずかなエネルギーを必要とするだけで、とても良い経済効果が得られる。これは現在そして今後相当長期間、重大な意義がある。
 機械と電子製品の品種、質量、コストが現代の世界水準に達しているかどうか、競争力があるかどうか、世界市場で生き残れるか、これは一つの厳格な(考核的)尺度である。たとえば世界市場で生き残ることができるものは、疑いないことは、質が良い、コストが安いものである。このような民間用製品を作り出すことができれば、先進的国防武器もとくりだすことができる。当然新式武器はさらにまた特別な研究制作試験工作が必要である。現代の先進的技術設備を国民経済の各部門備えることによってのみ、わが国の工業、農業、交通運輸業、商業そして科学文教事業と国防の現代化を実現できる。それには労働力、労働手段、労働対象各方面がすべて求められる一定の質まで高まる必要がある。この面で現在われわれはとても遅れている。例えば現在我々は多くの大型技術、複雑な設備さらには各種の先進的精密機器(儀器,儀表)を主として輸入に頼っている。我が国の機械製品の輸出はとても少なく、手工製品(手工工具)を含めて1979年に4億米ドル、わが国輸出額の3%、世界の機械輸出総額中の0.07%にすぎない。1977年にシンガポールの機械製品の輸出が20億米ドル、わが台湾省が22億米ドル、インドが7.8億米ドルに対し、我が国はわずか2.1億米ドルあまりであった。疑いないことは、わが国の工業発展は、主に国外市場に頼っている日本とは違って、国内市場に依存してきた。しかしわが国の工業製品が迅速に世界水準に追いつくには、現代化建設を加速し、本国で生き残り、目を世界に広げて、国際競争に参加することが不可欠である。これが我々の事業を前に進める一種の動力である。井の中の蛙、守るだけで改めない(抱殘守缺)、自己満足(驕傲自滿),世間知らずの自惚れ(夜郎自大)では、現代化は実現できない。それゆえに、わが国の工業製品、とくに機械製品の輸出率を高めることを、戦略的問題として提起する必要がある。(以下略)

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