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民主党派・知識人の取扱い 1957

(過渡期について、新中国は共産党と民主党派との関係について一見対等な関係を描いていた。しかしこの関係は、1957年の反右派闘争で根底から覆されてゆく。注目されるのは民主党派と共産党とが相互に監督するといった対等な関係を示唆する表現。もう一つの注目点は、一方で民主党派を思想改造するといい民主党派の縮小を示唆しながら、他方で時間が経過しても党とは別に民主党派・知識分子が新生して存在し党は依然少数派とも読めること。これは一体どういうことなのか?)

李維漢 回憶與研究pp.623-630 5.新民主主義から社会主義に向かう時期における民主党派・知識人工作(過渡時期的民主党派和知識分子工作)
p.623 民主党派の成員が1955年に3万9000人となりこれは建国初期の1万1000人の2倍以上。連携する階級階層の中上層代表人物を吸収し彼らは国家学校などの仕事に深くかかわっているとしている。
→ ここから考えられるのは、共産党に属さない、主だった人々を民主党派に振り分けたのではないか?ということである。民主党派の成員には、とくに科学技術の専門家、企業経営管理者に多かったことがうかがえる。民主党派と知識人の問題はかなり重なっているのではないか。民主党派は高等学校(大学)の教授・副教授、正副校長・・・の3分の1程度を占めた。p.624

これらの人々の扱いについては、国家建設に参加を求めp.624 またこれらの人々の参加でこうした人々の利益要求を反映させるp.625とある。

p.626 また国家政治生活の中で、党と民主党派は相互監督を実行するとある。党と国家は重大な政策の決定、憲法法律の制定実施、主要政策の決定にあたって各種会議を通して民主党派無党派人士の意見批判建言を聞き取り、政策法令工作の改善に努めるというもの。

p.627 さらに自発性の基礎の上でマルクスレーニン主義理論と国家の大政方針の学習を組織、思想改造を進め、社会主義的進歩分子と核心を育成(培養)するとある。

→ この思想改造でよくわからないのは、対象が一定なら、思想改造を進めて、なぜ社会主義分子に一元化されないのかである。民主党派の役割が終わったとして民主党派へ闘争をしかける主張に対して、李維漢は民主党派の革命への貢献を上げ、共産党以外の革命の観点を許さないのは傲慢とまで言っている。しかしそれだけでは不十分で民主党派問題がなぜ縮小しないのかも説明されるべきであろう。資産階級が労働者に、非党知識分子が労働者階級知識分子に置き換わる想定を置きながらp.628 なぜ民主党派問題は残るのか? つまり、裏の言外の想定として、民主党派が新たに生まれると言っているように思える。 もしも民主党派が、社会基礎をもっていて新たに生み出されるのであれば、社会階層として存在する民主党派の人々を、思想改造の対象とするのは、民主党派に分類される階層の人々を低く見ている(差別している)ことになるのではないか?

→ 後年 李維漢は階級闘争消滅論を主張したとして批判される。私の考えでは、民主党派の扱いの問題を議論している限りは、李維漢は階級闘争消滅論とは言えないように思える。社会主義に移行した社会で、この民主党派の人たちとは、一体何を意味するのだろうか?誰がどのように選抜あるいは加入するのだろうか?

pp.628-629 知識分子のなかで党員は百分の7という数値。非党員知識分子が圧倒的多数という数値がしめされる。高級知識分子の多くが非労働人民家庭とされる。この記述から、出身階層が労働者でないか否かで知識人を振り分けたために、知識人の大多数を思想改造の対象としたことがうかがえる。馬鹿げているが、新中国はこうして大多数の知識人を差別対象にした形で建国を始めてしまったのではないか?そして資産階級が労働者に、非党知識分子が労働者階級知識分子に置き換わる想定を置いてみれば、そこに残るのは反知性主義なのではないだろうか?

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#反右派闘争

 

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