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後発優勢ー林毅夫 《中國經濟改革的經驗與反思》2012/2015

 林毅夫(1952-)は中国を代表するエコノミスト。もともとは台湾の将来を担うはずだったエリートである。台湾金門島から1979年5月、改革開放が始まったばかりの中国に泳いで渡ったエピソードは有名だ。彼は1978年台湾国立政治大学で企業管理修士号を取得。しかし1979年5月、金門島に軍人として赴任しているときに単身泳いで大陸に渡った。その後、北京にたどり着き中国人民大学の門をたたくが拒絶され、北京大学が彼を受け入れた。ほどなく、改革開放の最初の留学生の一人として渡米。1986年にシカゴ大学で博士号を取得している。この経歴からも理解されるように、彼の視角はオープン、国際的である。金門島から大陸への「脱出」については、当時の台湾の政治が民主的でなかったこと、逆に大陸は改革開放政策の展開により大きく変化する兆しをみせていたなど、当時の政治情況から理解できるところがある。ただ渡海中に双方から銃撃される危険があり、無事上陸できても大陸側が林をどう処遇するかは、まったく見えなかったわけでとても大胆な行動だったことは間違いない。
   1987年に帰国したあと、国務院農村発展研究センター発展研究所副所長などを経て1994年には北京大学中国経済研究センター所長、2008年には世界銀行チーフエコノミストに就任。名実とも中国を代表するエコノミストとみなされるようになった。我が国では、2012年に刊行された林毅夫著・劉徳強訳『北京大学中国経済論講義』東洋経済新報社は、中国経済を現代経済学の言葉で説明した書物として広く読まれている。
 同書は、重工業を優先して発展させようとした中国では、経済余剰を国家が掌握するため国有化が必要になったとして、国有化の内在的ロジックあるいは正当性を記述している。他方で農業の生産性がその障害となった。そこで農業における集団化で規模の拡大をめざした。ところが集団化は生産性の低下を生み出した、と新中国の歩みを整理している。この生産性低下について同書は、退出権仮説(当初は農民に与えられていた、合作社からの退出権がはく奪されたことで、有能な農民の合作社からの退出することや合作社が解散することが現実の脅威ではなくなり、人々はなまけるようになり生産性が低下したとする仮説)を提示している(前掲書pp.79-83参照)。1978年までの中国の計画経済は、農業国で重工業を発展させたという意味では成果があったが、都市化を進め国民の所得水準を引き上げるという言う目標については、失敗であったとしている(主として第4章。サボタージュやごまかしに対して、有効な監督が難しい問題については第7章第8章など。)。1978年以降の急速な経済発展については、比較優位のある労働集約的産業にシフトしたことと、後発性の利益をいかしたことによるものだとしている。
    ところでこの後発性の利益(後発優勢)はマーケティングでは後発優位follower's advantageという。先行者(先発者)に比べて、後発者は後追いであるがゆえに開発済みの技術を模倣し、先行者が開いた市場に参入することができ、競争で優位に立てることを指している。経済発展論の世界では、これは後進性の利益late-development advantageという。言葉は違うが、両者の意味内容はかなり重なっている。中国の場合は、労働賃金の安さという比較優位を活かして低コストで生産することにも助けられた。労働集約的産業を伸ばすことは、資本の蓄積が少ない国内事情とも合致していた。

 林毅夫《中國經濟改革的經驗與反思》載《新常態改變中國》中和出版,2015年,54-67 この論文で強調されているのは、改革開放後、中国がいわゆるショック療法=急いで市場化を全面化せず、漸進的な方式を採用することで、経済成長の落ち込みを避けることができたこと。他方でそのマイナス面として、分配上の不均衡や腐敗などのマイナス面が拡大しているという認識である。この論文は転載だと思えるが、初出の場所はまだ突き止めていない。発表年は冒頭の書きぶりから2012年と仮決めしておく。以下54-59を訳出する。全体として愛国的というのか、政府、中国という立場を代弁しているように見えることが気になる。
     林毅夫《中國經濟改革的經驗與反思》2012/2015
p.54  中国の改革開放から33年、西欧理論を用いての認識は誤った道は、人類経済史上は、かつてなかった奇跡を創造した。理論の適用性は条件により決定される。西欧に適用される理論は、我々に適用できるとは思えない。重要であることは、我々の理論は(西欧の理論を?)受け入れることが出来ないということではなく、 この理論は我々が世界を認識する助けになるかどうか、我々が世界を改造することの助けになるかどうかである。我々は中国社会科学の中国化(本土化)をせねばならない。そうすることで中国の知識分子は国家の現代化発展に本当に貢献でき、意図せずに誤ることを避けることができる。
 私は中国の経済改革の経験の探索検討から中国の経済発展の教訓を学ぶことを希望する。中国の経済改革に対しては、人々は生活の過程で、その成果を実感することができる。1979年から2012年まで連続33年の間、中国の年平均成長率は9.8%に達した。このような高速発展態勢は人類経済史上かつてなかったことである。またこの経済転型期、基礎が薄く、人口が多く、制度も整わない状況で、これ(高速成長)が生じたことは、うたがいなく奇跡である。このような成績は、前もって誰も思いつかなかったことだ。
 以下、私は中国が改革開放33年で得た成績と出現した問題から幾つかの教訓を得たい。
p.55  新たな理論は通常、現象の背後の原因分析から導かれる。この現象は新たな現象で、過去の現象でもありえたが、過去の理論では説明(解釈)できない。そこで新たな理論での説明を提起したい。中国改革開放33年、西欧理論を用いた認識では誤った道が、人類経済史上かつてなかった奇跡を創造した。なぜこのような成績だったのか?これからどこに問題が生ずるのか?私は5つの相互に関連する問題を分析回答し、中国経済改革と経済学科の発展の道についての教訓を得たい。
    第一の問題。一体なぜ改革開放以後、中国はかくも長時間このように高速成長できたのか?背後で一体何が支え(支撐)だったのか?
 第二の問題。一体なぜ1979年の前にこのような成績は取得できなかったのか?幾世代の努力が重ねられていたのに。中国現代化の追求、中華民族の偉大な復興の追求は、決して改革開放以後初めて開始されたのではなく、阿片戦争以後、我々は一貫して苦労して国家現代化を追求してきたのに。
 第三の問題。中国の発展がかくも早かったのは、転型が伴った長所による。ではなぜ中国以外の転型国家では中国で出現したほどの代表性は現れないのか?
 第四の問題。中国の転型過程で、漸進的双軌制改革への反対はなぜしょうじたのか?いかに理解すればよいか?
 最後の問題。理論は我々の世界認識を助ける。また我々が世界を改造することを助ける。以下に将来の発展方向を探ればよいか?いかに今後の発展を実現するか?

 中国の経済改革はなぜ成功したのか

 1979年に開始された改革開放以来、中国はワシントンコンセンサスに従ったわけではない。すなわち私有化、市場化そして自由化を完全に実現(推行)し、政府はただ均衡予算を目指し(擔負)、社会経済の安定した道路を維持するというワシントンコンセンサスに従ったわけではない。中国が進めたのは一種の漸進方式である、(計画と市場)両方あり(双軌制のもとでの)改革開放で、効率的でない大型国有企業を私有化しなかっただけでなく、継続させ保護を与えるものだった。しかし新たな産業に対しては、参入(准入)を認め、市場ルールで運用した。
 中国が当時選択していた道は、改革開放初期に不正確な道と認められた。改革開放初期、国際学術界では新自由主義が盛んであり、開発途上国家や社会主義国家の経済発展が良くないのは、政府の経済干渉が、国有化や、価格非市場化など多すぎて捻じ曲げられているからだと考えていた。
p.56    当時の経済学界の一つの基本的共通認識は、計画経済は市場経済にかなわないというものであった。それゆえ、計画経済国家あるいは政府干渉過多国家は、改革のため、ワシントンコンセンサスが語る所に従い、市場経済での運行を基本制度として整備すべきで、かつそれが最初にするべきことであった。
 中国が進めていた双軌制改革は当時最悪(最糟)の方式と考えられていた。双軌制改革(訳注 計画あるいは国有大企業の領域を残しつつ漸次的に市場化を進めた中国流の市場化改革のこと)に反対する観点(の人たち)は、もし漸進的双軌制度を設けると、かならず尋租(rent seeking 行政を利用して金儲けをする行為)、収入分配の不公平、腐敗が生み出されると。確かに、中国の快速発展の過程では、このような双軌制改革に反対する人の話はいつも存在している。
 しかし肝心であるのは現在これを見ると、ショック療法を行った国家で、我々に存在する(腐敗?)問題は彼らにも広く存在するし、ひどくさえある。しかしわれわれは、これらの国家がもってない、成績をもっており、中国の改革開放は33年の安定と快速発展を実現した。ショック療法を遂行した国家は療法以後、経済は停滞、崩壊したものさえある。
 中国のこの30余年の経済快速発展について、国外の一部の経済学者の考える理屈はとても簡単で、中国は多すぎる農業人口、農村剰余労働力を有していたからだというものである。農村の剰余労働力を付加価値の高い産業部門に移転させることで、経済の快速発展を導くことができると。問題の鍵は、中亜を含めあるいはアフリカの多くの国家、これらの国家のほとんどの人口もまた農業人口で、、同様に多くの剰余労働力があること、彼らは20世紀80年代、90年代に改革転型を開始し、ワシントンコンセンサスに従い市場化改革を全面的に進めたが、中国のような快速発展を達成できなかったことである。
 それゆえ我々自ら理論的に総括を進める必要がある。理論の目的はなにか?理論は論理の遊びではない。理論は我々の世界認識を助け、我々の世界改造を助け、我々が現象の本質をはっきり認識し、現象の本質の観察に至らせ、どれほど多くの問題があってもそれらはこのように解決されると。

 中国の経済成長の本質は労働生産性水準の不断の向上にある

 中国の改革開放以後、その経済に出現した快速発展について、私はアダム・スミスの方法を研究することを主張する。
p.57   アダム・スミスが国富論の中ですでに方法論すべてを標題にして書いている。彼の標題は、「国民の富の本質と決定要素の研究」である。一体なぜ中国の改革開放以後の経済が快速発展できたかを了解するためには、この快速成長の本質は何かを知るべきである、私は労働生産性の不断の向上だと認識している。(では)労働生産性の水準はなぜ不断に高まることができたのか?そのメカニズムは何か?決定要素はまた何か?技術の不断の創新と、産業の不断の昇級(escalation)である。技術の創新は現有の産業の労働資産性水準の引き上げをもたらし、産業の昇級は現有の労働力資源を付加価値の高い新産業に到らせる。これは労働生産性水準を不断に高くすることを決定する必要で根本的要素である。
 この角度から見ると、先進国(発達国家)であれ途上国(発展中国家)であれ、もし経済の成長持続が必要なら、技術は不断に創新され、産業は不断に昇級せねばならない。しかし先進国と途上国とでは一つとても大きな違いがある。先進国家は工業革命以後、一貫して全世界で所得(収入)水準最高のグループに属しており、その労働生産性水準は全世界最高であり、それは世界の技術水準を代表しており、産業水準は全世界のトップ(前列)にある。それゆえに技術創新野ためには自己の発明が必須であり、産業の昇級もまた自身発明の新たな産業が必須である。まとめると、先進国家にすれば、創新はすなわち発明である。
 多くの人が良く知っているように、いかなる発明発見もすべて大量の資本が必要で、かつ成功の確率は非常に低い。先進国家では19世紀中葉から現在までの年平均所得(収入)成長率は2%に達している。また労働生産性の平均上昇水準はおおよそ2%である。加えて人口成長率は1%を超えなかった。次のように言える。19世紀中葉以来の百余年の時間、先進国家の発展は相当安定しており、平均すると毎年3%程度の速度の成長だった。
 途上国家では、所得(収入)水準は不断に高まり、同様に必要な労働生産性水準も不断に高まっている。しかし途上国家の労働生産性は先進国のそれと比較して、低い。これは途上国の現在保有の技術が先進国家のそれに比べて低いこと、産業付加価値比が先進国家に比べて低いことを意味している。このような情況の下、途上国家の創新には二種の来源がある。一つは自身の新技術、新産業の発明である。二つ目は模倣方式で現有の技術と産業を輸入(引進)することである。輸入された技術が現在の技術よりよければ、これは創新である。もし輸入された産業が―既に成熟した産業であって―その付p.58    加価値が現有の本国産業の付加価値より高ければ、これは産業の昇級である。
   一体、自分の発明した技術、産業がいいのか、あるいは輸入採用方式がいいのか?経済角度から分析するなら、これはコストと効率の問題(関係)である。一つの方式は自身で発明創造すること、(これは)コストが高いだけでなく、リスクもまたとても大きい。もう一つの方式は技術の輸入、コストが安いうえに、多くの技術はすでに特許期限を過ぎているので、使用するのに代価の支払いが不要である。くわえてこれらの産業と技術はすでに成熟したこと、有効であったこと、市場にニーズがあることがすべて既に証明されている。途上国家がもし後者の方式を用いるなら、その経済成長率は先進国家より高いのが当然である。この可能性は経済学上は後発者(高来者)優勢、あるいは後発優勢と呼んでいる。
 統計資料によれば、第二次大戦から現在まで、13の経済体がこの後発優勢を用いて自国の経済成長を加速させ、平均した毎年の経済成長率は7%あるいはさらに高かった、後発優勢がもたらした経済成長は先進国家のそれの1倍から2倍に達し、25年あるいはさらに長時間持続した。
 中国は1979年以後この13の経済体の一つになった。中国がなぜ高速発展できたかの道理はとても簡単で、後発優勢を充分利用したからである。

 後発優勢が1979年以後顕著になったのは、主に発展道路の選択にある
 しかし、我々のこの後発優勢はすでに一世紀あるいはもっと長い時間存在していた。それなのになぜ1979年以後に、ようやく後発優勢を経済の快速成長の動力としたのか?
 私が考えるに、主要な原因は我々の発展道路と関係している。1949年の前は中国は内憂外患、社会は不安定で経済発展も不安定だった。1949年以後、社会主義新中国が建国され、1949年から1952年は戦後回復、現代化建設を開始した。当時は安定した環境があったが、1952年から1979年は経済成長の成績はよくなかった。人民生活水準は明らかな改善はなかったのではないか?その最も主要な原因は当時の確定された発展目標にあった。1957年、1958年に提出された現代化建設目標は「15年でイギリスを追い越す、20年でアメリカを追い越す」だった。つまり
p.59    15年の時間のうちに、我々の労働生産性はイギリスを、20年以後は、我々の労働生産性は米国を上回らねばならない。労働生産性が英米を上回るには、当時英米が擁した産業を保有する必要がある。当時英米が擁した産業は世界の最先端産業で、かつ特許権で(專利)保護されていた。くわえてこれらの産業はすべてその国家の現代化の基礎であり、多くはその国防安全に関係した資本集約型の(資本密集的)大型重工業で、その条件のもと誰かにあげるものではなく、発展させるには自己の発明によるしかないが、自身の発明はコストが高いだけでなく、後発優勢の放棄であった。さらに重要なことはこれらの産業は資本集約型で(あるのに)、当時の中国は一窮二白の農業社会で、(ともかく)資金資本がとても不足していた。
 それゆえ、当時先進国家が主導し占有優勢する産業は中国の実情に適合しなかった。(中国が)比較優勢をそなえたものでなかった。資本集約型産業で最も重要なコストは資金コストだったが、我々は資金が不足し資金コスト価格が高かっただけでなく、コスト全体が先進国に比べて高く、開放された市場で競争力がなかった。企業に生存能力がなく、政府の保護補填でようやく生存できた。しかし保護と補填は必然的に政府の市場への干渉と過度の歪曲を生み、様々な悪弊をも作りだした。比較優勢の産業が発展せず、発展するのは比較優勢がないもので、経済発展の効率はとても低かった。そのため我々と先進国家との差がますます拡大したのである。1979年改革開放以後、我々は我が国の比較優勢に適合した労働集約(労働生産密集的)産業の発展を開始し、その結果、これらの産業は後発優勢を利用して急速に成長し、快速成長の33年の時間が得られた。(以下略)

 この論文で、中国経済の発展が可能であった理由の一つとして、林毅夫が指摘するのは、比較優位のある労働集約的産業を発展させ、後発優位(後發優勢)を十分に利用したことである。(他方、かつて1950年代後半、大躍進政策の下で発達させようとしたのは資本集約的な大型重工業だ)。しかし中国にはこれらを発展させるのに必要な自身の発明がなく、資金コストも高い(資本資金に不足していた)、比較優位はなかったとしている。
  もう一つ、中国経済発展の理由として上げているのが、雙軌制の成功である。これに対置する言葉として、(一挙に市場化を進める)ショック(休克)療法を上げている。ショック療法で一挙に市場化に進んだ国がその後停滞に陥ったのに対し、双軌制は分配上の不均等とか腐敗が懸念された。双軌制はたしかに安定した成長につながった。他方で経済情況は改善されたので、そのマイナス面はそろそろ改革されなばならない、としている。
   なお双軌制については復旦大学の張軍(チャン・チュン 1963-)が書いた以下の本が基本書として有名だ。
 張軍《“雙軌制”經濟學:中國的經濟改革(1978-1992)》上海人民出版社,1997年
 また2015年段階での日本と中国の人口、GDP、産業構成、都市化率などの対比は以下に数値を上げた。⇒ 在留外国人統計(1)

#林毅夫     #ショック療法 #後発優位 #双軌制  


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