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趙平『私の宝物 泣き虫少年のあの日の中国』連合出版2017年1月

 趙平(チャオ・ピン 1956-)という人の日本語小説。住んでいた場所は貴州省貴陽市。この人の経歴は、1966年文化大革命で貴州省工業局の幹部だったお父さんが走資派として批判されたことで小学校を退学。紅小兵を経験してから13歳から工場勤務。ただ英語の家庭教師を受けて英語を習得。英語通訳として働いたあと。1978年には統一試験に合格して四川大学に入学。ここで日本語を学び、さらに天津外国語大学大学院を経て日本には1991年留学。阪神淡路大震災で被災の経験もして2001年に帰国。とかなりユニークだ。その後は中国で、日本語教育機関の管理職をされているようだ(2017年段階では貴州財経大学外国語学院院長)。「私の宝物」は自身の経験から編み出された13編の短いお話を編集したもの(連合出版2017年)。
 お話は少しよくでき過ぎの話が多いので作為や構成が仕組まれていると邪推してしまうが、どこまでが本当の話なのだろうか。
 たとえば「奇縁」と題した小編に書かれた、小学校退学後、工場勤務をするなかで、英語を習い始めた話や、その先生が、反革命分子として殺害される経緯。これは本当の話であるだろう。しかしお父さんの隠し子の話あたりは、話があまりにも巧妙すぎて作為(創作)を感じてしまう。全体にもう少し創作意欲を抑えて、ルポルタージュというか、事実をそのまま書いてくれた方が資料的価値はあるとは思える。ここでは気になったところを抜き書きしておく。

(お父さんの従兄弟は地方劇の劇団員だった。その奥さんは苗族で二人に女の子がいた。その子は病気だった。劇団のボスは造反派で、二人をいじめ、いろいろな事情からその子を育てることが困難になったとき、ボスはその子を孤児院に預けることをすすめてきた。ただ預けて1週間もたたずその子はなくなってしまった。)pp.149-160  中国の悲劇が大きくなった理由は、家族を解体したことにあるのではないかとこの部分を読んで改めて思う。よりどころである家族を解体して、公的な施設も作るが、そこは実際には機能していない。農村の人民公社の場合は、食べるものを個々の家庭から取り上げ、働くものには食事は提供する仕組み。だがそれは、働けないものの切り捨てにつながり、大量の餓死者につながった。家族というのは弱い人たちのよりどころになっている。それを壊した中国の社会主義は、おぞましいものに見える。

 1949年、毛沢東の軍隊は共産党政権を樹立し、ソ連に学び人口の流動性を管理する手段の一つとして、出生地別による戸籍制度を導入した(農村戸籍と都市戸籍に分ける)。以来、農村から都会に移住するのは、特別な条件がなければ不可能になったので、農村出身の人々は、そのほとんどが生まれてから死ぬまで地元の土地に縛られていた。
 八十年代になると、改革開放政策のなか少しずつではあるが、農村出身の人間でも、戸籍はなくとも一時的であれば都会に移住することが許され、金銭で都会の戸籍を買うこともできるようになった。pp.227-228

   当時ちゃんとした職場に就職するのに肝心なことは、いい父親がいるかどうかだった(いい父親とは革命幹部・烈士)。「数学・理科・化学など、どんなに成績が良くても、いい父親を持つ者には適わない。p.264

    迎えに来てくれた村の幹部たちは、にこにこしていた。彼らには、工場から1名託されるごとに、毎月十五元の金と三十斤の食糧配給券が渡される仕組みだった。地元の農民にとっては、それは決して小さな額ではない。特に食料配給券はなかなか簡単に手に入るものではなかった。因みに僕の当初の年収は三百元だったが、農村の農民たちで最も現金収入がある者でも、年収はおよそ百五十元ほどだった。p.265-266 (著者は工場労働者だったが、下放された。つまり下放は知識青年だけでなく、青少年労働者の都市から農村への移動命令でもあったこと。かつ文化大革命の中、工場がほとんど機能せず、若者たちが工場内でも暇をもてあましていたことがわかる。)pp.264-265

#戸籍制度 #下放 #趙平


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