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コース 王寧『中国はいかに資本主義になったか』2012

Ronald Coase and Ning Wang, How China Became Capitalist, Palgrave Macmillan  2012(ロナルド・コース 王寧共著 栗原百代訳『中国共産党と資本主義』日経BP社 2013)現代中国経済史のすでに古典といってよい。繰り返し読んでそのたびに、発見がある。以下、気になる箇所を(栗原訳は大変こなれているが、訳せるところは私の訳で)引用する。

p.5  訳pp.30-31 中央計画の固有の致命的欠陥は、社会の底辺にある人々には動機(incentives)と指導力(initiatives)が欠けており、上層にいる人には情報と責任感(accountability)が欠けていることにある。

p.9 訳p.37 (高校を1年で中退した毛沢東(マオ・ツェートン)が図書館でただ本を読む生活を過ごしたこと。長じて、北京大学図書館司書補assistant librarianとして、敬意を払われなかったことが、知識人不信の遠因になっていること)

p.12 訳p.42  レーニンが社会主義経済を一つの大きな巨大企業と見たのに、毛の経済は、おおむね同一の自給自足的な小単位が太洋に広がったものだった。(←このような考え方は何十年ものゲリラ戦から学んだ生き残りのための知恵だった。p.11訳p.41)

p.17 訳p.51  政治的な分権化(decentralization)がもたらした中央政府そして地方政府間の情報の分断なければ、大躍進(the Great Leap Forward)はかくも悲劇にならなかったはずだ。(中略)この経験から、多くの中国の指導者、とくに陳雲(チェン・ユン)(福光陳雲論文)は、(中略)中央での計画を神聖かつ欠くべからざるものとみなすようになった。

p.20 訳p.56-57 経済的な分権化は文化大革命(the Cultural Revolution)の間、経済を政治的混乱から隔離した、最も重要だが、あまり気づかれていない要因だ。

p.24 訳p.67 (1977年末に胡耀邦(フー・ヤオバン)は組織部長に就任し、党と政府関係者の名誉回復を主導した。その結果、82年までに300万以上が復権し、中央でも省でも指導部の大幅な入れ替えが起きた。11期党中央委員会(77年8月)のメンバー201名のうち半分以上が次期(82年9月)には入れ替わり、1977-80年に3つを除く全省で党書記が交代した。)

pp.25-26 訳p.69 (華国鋒(ホア・グオフォン)は毛沢東への忠誠を続けつつ、実践こそ真理を検証する唯一の基準であるとの議論を続けさせたが、これはかれのまれにみる政治的指導力(rare qualities of political leadership)と寛容さを示している。彼のこうした行動が改革への道を開いた。)

pp.26-27  訳pp.70-71(また華国鋒は毛沢東に政治的に忠実でありつつ、毛が階級闘争を政治の優先事項としたことには否定的で、76年末に権力を掌握すると1964年12月に当時の周恩来が掲げた農業、工業、国防、科学技術、の「四つの近代化(four modernization)」構想を復活させた。)

pp.29-31  訳pp.74-79(華国鋒は「四つの近代化」を復活させたとき、毛沢東の「十大関係論」の発表を決めた。1976年12月26日毛沢東生誕83周年に人民日報で公開。華国鋒の政策はのちに「洋躍進(Leap Outward)」と非難される。華国鋒、鄧小平(ドン・シアオピン)、李先念(リー・シエンニエン)ら。国家主導、投資主体、重工業中心。施設の管理、導入技術を受け入れるの国内の能力に十分注意払われず。石油の輸出収入見通し過大、国際市場での資金調達困難を過少評価。「洋躍進」は1977年末に始まり、1979年4月、陳雲(チェン・ユン 福光陳雲論文)が組織した中央工作委員会で打ち切り決定。西側から借款受入の経験をしたことは外資利用を拒否する姿勢の転換として評価できる。このほか華国鋒時代に、1976年12月5日 私営商業の復活認める→商品生産・商品流通の合法化。1977年8月多くの労働者給与引き上げ。1978年5月賞与出来高払い制復活。)

pp.35-36 訳pp.86-87(開放政策open door policy それから数十年にわたる経済改革の核心 華国鋒政権の洋躍進のもとでは、西側からの技術移入は選ばれた国有企業だけに限定された。貿易促進の政策下では、現代の科学技術がほぼ社会全体に役立てられた。70年代後半、中国は技術面で西側にはるかに遅れていた。遅れを挽回できるようになると、すぐさま技術格差が生み出す経済効率から得た莫大な利益を利用した。中国は張五常が予測したように資本主義になろうとしていた。)

pp.36-40 訳pp.88-94(1978年12月18日から22日 十一期三中全会(中央委員会第三回総会)で出されたコミュニケ。既存の経済システムの欠陥を過度の権限の集中とするのは毛沢東(マオ・ツェートン)の十大関係論と一致する。しかし最優先事項を生産力の発展に置いたこと:毛沢東の場合、1950年代半ばにはひたすら共産主義化を進め、文革では階級闘争と永続革命に突き進んだ。権限を毛沢東のように地方だけでなく、企業にも移そうとした。又なんでも実証の検証にゆだねようとしたこと。なお農業に弱点になっているとして食糧の買い付け価格引き上げを提起したが、生産の在り方の変化までは提起していない。毛沢東思想を堅持しつつ、経済改革へ突き進んだ。実践こそ真理を検証する唯一の基準とすることで、毛のイデオロギーから解放された。)

p.43  訳pp.101-102 (権限を企業に移す、企業の自主権(enterprise autonomy)という考え方はすでに、経済学者の間では顧准(グー・ジュン)福光顧准論文)や 孫冶方(スン・イェファン 福光孫冶方論文)が示していた。)

pp.46-50 訳pp.107-114 (市場改革への道は辺境革命(marginal revolutions)として生じた。まずは農業で。非集団化(decollectivization)、家庭請負責任制(the household responsibility system)の導入として。これは公式には安徽省に出現して、その後、中央政府の手によって全国に広げられたことになっているが、実際には私営農業は1950年代後半、政治的攻撃を受けながらもいろいろな形で生き残っていた。逆に1982年に家庭請負責任制が国策になると、生産隊はほぼ全廃され、業績のよかった集団農業さえ政治的圧力で閉鎖された。これはむしろ後退(setback)だった。)

pp.50-53  訳pp.115-118(中国の農業改革を活気づけ特徴づけたものは草の根から生じていたが、国に認められるまで農民は、この方式の正当性と身の安全を心配して長期投資をためらっていたので、国が認め国策としたことは重要だった。非集団化により農民が人民公社や生産隊の命令から自由になったことは、農村部に商業や私企業を復活するうえで、非集団化それ自体より重要であった。)

pp.53-56  訳pp.118-124(農村で起きたもう一つが郷鎮企業township and village enterprisesの台頭である。土法高炉backyard furnaces、社隊企業commune and brigade enterprisesが発展したものが多い。旧式の設備技術。労働集約的。生産隊幹部の就職先になった。私企業として自主権autonomyがあった。国の支援はうけられなかったが、自主権を活用して、国有企業が無視していたり供給が不足している分野に進出、積極的に投資、高い賃金で雇用を吸収した。結果として経済改革の促進剤となった。)

pp.56-59  訳pp.124-128(都市部では待業青年youth waiting to be employed問題の深刻化が、自営業容認の圧力を高めた。経済学者で国務院経済顧問だった薛暮橋(シュエ・ムーチアオ)は、1979年7月20日に自営業の認可を政府に促す論文を発表している。1981年10月に中央委員会と国務院は、個人経済を認める決議を行い、個人経済は公認された。ただ個人企業のままでは7名以下の労働者しか雇用できず、農村部では郷鎮企業、都市部では集団企業になることが必要だった。)

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