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企業年金基金を狙うM&A

いまから30年ほど前アメリカのビジネススクールに通っていた。ビジネススクールとは経営学を学ぶ大学院のこと。大学卒業をして4~5年の勤務経験がある28歳くらいが院生の平均年齢。わたしはもう31歳というのに女房と2歳になる長男をつれて大学院に通った。

行先はジョージア工科大学。ジョージア州アトランタというアメリカの南部に位置し比較的開かれている都会だった。それもそのはずでアトランタにはハーツフィールド国際空港がある。4年後にアトランタオリンピックをひかえだれもが経済成長を予感していた。

1996年にアトランタオリンピックが開催された。そのときオリンピックの水泳競技の会場になったのはジョージア工科大学のキャンパス内にあるプールであった。大学の施設にまで好影響があるのか。オリンピックの会場からすぐのところにマリオットホテルがあった。このホテルは館内に入ると吹き抜けになっていた。デザインはジョージア工科大学の建築学科へ依頼したという。オリンピック景気というのはすごい。

一方わたしはビジネススクールの授業で苦戦していた。1年目ということもあり特に人材開発・組織論で苦労した。理由はほとんど数字を使って計算することがないことだった。アメリカ人の友人にも助けてもらいながらなんとか授業を受けて無事に単位をとった。ヒューマン・リソース(人的資本)というのは難しい。つかみどころがない。それでなんとか食らいつこうとわたしは教授の話は熱心に聞こうと努力した。

いつも前の席にすわっていた。授業か終わってからも熱心に話をしてくれる教授が好きだった。なかでもDavid Herold教授は忘れられない。彼がアメリカのビジネススクールで行われていることに対して深い懸念を示していたことがいまでも記憶にある。あれほどまでに財務に偏る現状を憂慮していた。ウォールストリートで仕掛けるM&Aによりビジネススクール卒業生は瞬く間に大金持ちになる。それ以外のひとたちはとりのこされてしまう。

あるとき授業の終わりにわたしのところに近寄ってきて話してくれた。アメリカのM&Aの狙いは企業年金基金にある。決して戦略的意図があるわけではなくM&Aはお金儲けの手段なのだ。そういう話だった。そのような話を聞いた時アメリカでは製造業で長く働く人はいなくなるであろう。そうよぎった。長く働いたところでコツコツと貯めた年金基金が瞬時に消失してしまう。どうりで製造業で働きたくはないのだ。年収の高い金融かITでしか働かない。

わたしはこの年金基金を狙ったM&Aが日本でも盛んになっていくのではないかと憂慮している。その懸念は3つほどある。

ひとつは今年2022年1月に東洋経済が30歳の平均年収のトップ企業を公開した。このデータの見方には注意が必要であろうがトップ10にM&Aを仕掛ける会社が5社はいってきている。M&Aキャピタルパートナーズを筆頭にヒューイック、ストライク、日本M&Aセンター、そしてフロンティア・マネジメントと続く。日本の代表的な総合商社もリストにある。もはや商社はM&Aが事業の稼ぎ頭になっていることは確かだ。

わたしは20年前にインド系コンサルティング会社でリストラにあった。そのとき救いの手を伸ばしてくれたのは豊洲にあるアイ・ティ・フロンティアという会社だった。そこは三菱商事とIBMが8:2で出資をしており三菱系の5社が統合(Merger)されたことで誕生した会社である。

次になぜM&Aを仕掛ける会社つまりM&Aアドバイザリーが儲かるのか。企業の合弁・買収として取引が成立したときだ。そこで課金されるアドバイザリー・フィーがある。いわば手数料でその率は取引高の5%ともいわれる。100億円の買収がされたときには5%にあたる5億円+消費税がコンサルティング・フィーとして手元にはいる計算だ。この手数料はとても高い。

このフィーを課金できる背景として企業価値を市場よりも割高に計算をすることが可能であろう。100億の企業価値などないにもかかわらず机の上で100億として計算をし5%の手数料をチャージする。その原資は買収される側つまり売却される側のキャッシュ(流動性の高い勘定科目)の中にある。どうやら企業年金基金というものに狙いをつけている。

M&Aで一番おいしいところはM&Aアドバイザリーがもっていく。そして売却をした会社役員側の手元にも残る。ところが一般社員は解雇されて労働市場にほっぽり出される。それだけでなく長い間務めてきた年金基金に手を付けられる。定年退職をしたときに予定額よりも大幅に減っていることさえありうる。それではやる気が失せるのも当然であろう。

それくらいM&Aを仕掛ける側には旨味がある。された側はたまったものではない。M&Aにおいて長年の実績のあるベイン・アンド・カンパニーによるとその成功確率は3割程度だという。それがこの本に記されている。リスクを伴く取引だけに経営のプロによる仲介が必要というわけだ。

ビジネススクールの教室内で交わされたほんの数秒の会話が30年の時を経てよみがえった。この日本でも起こりつつあるのだろうか。M&Aというのは人々の仕事へのやる気をそぎ落とす。せっかく貯めた年金基金が経営者とアドバイザリーの懐に入る。それで年金が減額されてしまうからだ。こうなったらたまらない。こつこつと仕事をする気にはならない。まじめに働こうなどと思うひとも減る。そのように考えてもよかろう。

ただほんとうに起こりうるのだろうか。あくまでも理論上ではあるけどPBRが1倍に満たない会社が東証には4割もある。PBRとは株価純資産倍率のことで株式市場で上場会社がどう評価されているかという財務指標だ。それが1倍以下というのは市場で評価されていない。それどころか株主にとっては解散をしたほうがいいとされる倍率だ。それだけM&Aの標的にされやすい。

2022年に経済産業省から発表された伊藤レポート3.0の23ページにチャートがある。TOPIX500社のなかに解散予備軍が4割潜んでいる。純資産がマイナスという食いつぶして存在をしているゾンビ企業もいる。

経済産業省 「伊藤レポート3.0 SX版」 2022年8月

M&Aの取引は2年前はアメリカの20分の1程度だった。それがどうも増えてくるという予感がしてならない。

The Economist, "Global M&A Acitivity by Nationality"

地球の反対側にあるジョージア州アトランタとつなげてみたい。あのDavid Herold教授に聞いてみたい。30年前のことは覚えてらっしゃいますか。どうも日本にM&Aの嵐が来そうです。どうしたらいいでしょうか。彼は間違いなく答えるであろう。これがビジネスというものだよ。あれだけ忠告したではないか。彼から教わったことはほんとうに起きていそうだ。

参考資料 The land of rising stakeholders, Japan

The Economist, "How Japan’s stakeholder capitalism is changing", March 18th 2021