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【お】オッサンと大人の色気の相関性について

僕は今年で50歳になる。

10代から20代になるときは「なんかこれからいろいろあるんだろうな」って思っていた。大学に行っていて、その頃は家にも帰らないで無茶苦茶に遊んでいたけど、卒業したら社会に出なくちゃいけないということはわかっていた。20代で結婚するっていうイメージはなかったけど。
30代になるときは「もっと面白いことがありそうだな」って思っていた。実際その通りで、仕事で思いがけずいろんな広告賞をもらったりして、たくさんの面白い人たちと知り合いになって、自分の仕事の質や幅がどんどん変わっていった気がする。
40代になるときも同じで「もっといままでやったことがないような面白いことがありそうだな」って思っていた。これもその通りで、この時期にマレーシアに赴任しているし、もう4年半もマレーシアに住んでいる。40代の約半分を海外で過ごすことになりそうだ。
いま、40代を終えて50代に突入するタイミングなんだけど、基本的には同じようなことを考えている。「この年齢しか出来ない面白いことがありそうだな」っていう感じがしている。
ただし「あと10年したら60歳になるな」という新しい気持ちが湧いてきていて、恐らく初めて経験する「老い」のようなものを漠然とイメージし始めているんだと思う。

最近小さな文字が少し見づらくなってきているけれども、僕は決して老眼ではない。「自分は老眼だ」と認めてしまったら最後、本当に老眼になってしまう。僕は若い頃からこういう強い精神力で生きているところがあって、風邪を引いたかな?って思っても絶対に「風邪を引いた」と認めない。本当に風邪を引いたことになってしまうからだ。風邪を引いたら最後、医者に行って薬をもらったりしないといけなくなってしまうし、酒を控えろだとかタバコをやめろだとかそういう副産物がついてくる。それはそれで面倒くさいし、鬱陶しい。生活態度を改めるぐらいだったら風邪なんか引かないほうがマシだ。

だいたい「老眼鏡」というネーミングが大嫌いだ。「老いた眼のためのメガネ」なんて言われたら、そもそも老眼だって認めてないんだから、そんなものは僕の人生には必要がない。

老眼鏡は英語で「Reading Glasses」である。何かを読むときに読みやすくなるためにかけるメガネっていう意味で、なんというか、すごく違和感がない。「ああ、そうか。そういう便利なものが世の中にあるのか。じゃあそのメガネ、ひとつもらおうか」っていう気持ちになる。

これが「老眼鏡」っていう名前じゃなくて、「いままで人生を頑張ってきた人のためのメガネ」とか「たくさんの色んなことを見続けてきた俺の眼お疲れさんメガネ」みたいな名前だったら、抵抗なく買えるのに。

なにを言っているのかわからない人も出てきそうなのでこのへんでやめて本題に戻すが、僕はこの年齢になっても自分がオッサンであると認めていない。

そもそも「オッサン」の定義がハッキリしない。他人から決められるものなのか、それとも自分で宣言するものなのかもよくわからない。

他人から決められる場合は、ネガティブな意味合いで表現されるることが多いように思う。

「もうオッサンなんだから、もうちょっと大人しくしたほうがいいんじゃないですか?」みたいな話だと、そもそも自分がオッサンって認めてないんだからこの話は成立しないし、水掛け論にしかならない。
「オッサン、キモい!」とか「オッサン、臭い!」とか「オッサンなんだから黙ってろ!」とかそういうのは、そもそもオッサン全否定なので、こちらとしても、もうどうしようもない。そういう人たちとはこっちも関わりたくないし、関わらなくても十分人生は楽しい。まあちゃんと定期的に床屋に行ったり朝シャンしたり酒を飲んだ席で面倒くさい昔話や説教をしないようにはしているけど。

自分で宣言する場合は「先週の日曜日にゴルフに行ったら筋肉痛が水曜日から始まったんだよね。もう俺もオッサンになったってことだな」みたいな感じだろうか。
これは自分でも感じるところがあるので、加齢とともにこういう傾向はあるということは認める。でもそれがイコール自分がオッサンであるっていうことになるとは思わない。自分で認めてないんだから仕方ない。
「最近酒が弱くなってさ。もうオッサンの証拠だよね。」
こういうのはアスリートとして鍛え方が足りないだけの話で、オッサンのせいにして逃げているだけなので、理解ができない。以前みうらじゅんさんとお会いする機会があって、そのときに「酒が飲めないっていうのは、物理的に嘘なんだよね。だって口があるんだから。」みたいなことをおっしゃっていて、思わず膝を叩いたことがある。

なにかと嫌われがちで自虐的にすらなってしまうオッサンという存在だが、50歳を迎える人がみんな総じてオッサンかというとそうではなくて、すごくカッコいいというか素敵な人として認められている人たちもいる。

この原因は「大人の色気」を持っているかどうか、という一点に尽きるのではないかと最近思うようになった。

この「大人の色気」がとても欲しいと思うようになってきていて、同時に僕にはそれが不足しているのではないかと強く思うようになっている。
人間は自分にないものを求めるので、間違いなくそうなんだろう。「無い物ねだり」というやつだ。

恐らくこれはいままでの人生をどう生きてきたかによって手に入れることが出来るものなように思うので、そう簡単に身につく代物ではないということはよくわかっている。
同時にこれは自分で宣言できる筋合いのものではないので、世間様がそう思ってくれるかどうかということによって決まる。恐らく万人にとって「この人、大人の色気があるわ」って思われるのは007時代のピアーズ・ブロスナンぐらいなもので、そう感じてくれるかどうかは人によって全く違うんだと思う。
こればっかりは、いくら自分で認めるとか認めないとか言っていても、どうしようもないことだ。

もちろん「カッコいい」とか「太ってない」という外見的な条件の他にも、「落ち着いている」とか「人の話をよく聞いてくれる」とか「身なりがさっぱりとしている」とか「お金の使い方がきれい」とか「言葉の使い方がうまい」とか「知識が豊富だ」とか「話が面白い」とか「相手を不快にしない」とか、そういう感じのファクターを掛け算していくと「大人の色気」がどのくらいあるのかっていう指数が出てくることになるような気がする。こういうファクターのどこを重要視するかが人によって係数が違うので、万人に受ける「大人の色気」が難しいのではないかと思う。

ここまでキチンと分析できているのに、なぜこれが自分の手に入らないのかがなんとなくわかってきた。文章を書いていると、知らず知らずのうちに自分の思考が整理されることがある。

僕はいま、あいうえお順にテーマを決めて文章を書くというチャレンジをしている。マレーシアに長くいることもあって、自分の錆びついた日本語の文章力を鍛え直すという意味もあって、これに取り組んでいる。
いつもだいたいこんな感じっていうイメージだけを持って、大雑把にタイトルを決めて、思うままに書き進めていくんだけど、そのうちに脱線して違う話になってしまって、どうやっても元に戻せなくなってタイトルを書き直さなきゃならなくなるときもある。でもタイトルには縛りがあるので、これがなかなか難しい。
このやり方だと、テーマや内容に統一感が全然出ないので、スキが付きづらいのも承知でやっているんだけど、やっぱり文章を書くっていう作業は素晴らしい。
いま目の前の霧がハッキリと晴れて、なぜ自分に大人の色気がないのがわかった。

そもそも僕は「色気」っていうイメージだけを追求したり憧れたりしてるだけで、肝心な「大人の」という部分を考えていなかった。これだ。間違いない。

そもそも「大人」っていうのは自分の年齢をキチンと把握している人なんだろうし、「大人」はオッサンになることを認めるとかどうだとかそういうことは考えてないだろう。オッサンかどうかなんて、他人様から思われることなのに、それを認めないとか定義がどうとか言っている場合ではない。

自分の眼の変化を認めず、「老眼鏡」っていうネーミングをしつこく攻撃したりdisったりしているようでは、話にもならない。
これでは単に「老い」を恐がっているチキン野郎だ。

これから心を入れ替えて、この「大人の色気」を徐々に手に入れようと思う。もしこれを読んでくれている知り合いの女性がいたら、次にお会いするときからじわじわとこの「大人の色気」を放出していきますので、どうか優しい目で気づいてあげてください。

でも、若いやつからオッサン呼ばわりされたら、「てめーナメたこと言ってんじゃねーぞ、このやろー!」ってなるだろうな。
これは治らないな、きっと。

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