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NY昔話

大学3年生の夏休みを利用してNYへ出かけた、1990年頃の話。

きっかけは、まあいろいろあるけれど、当時から(日本にいながら!)日本の社会になじめない自覚があったので、将来どこか海外に住むにしろ「まずは世界の中心的役割を持っている街を覗いて来ようではないか」というのがありました。

実はその少し前にアメリカ人の彼女と付き合っていた時期もあるので、英語でのコミュニケーションはさほど心配していませんでした。

出発前、名古屋に住んでいたアメリカ人の友人達(不思議なものでたくさんいたのです)にNYに行こうと思うと話すと、じゃあここに連絡をしろと「友人の友人」をたくさん紹介してもらいました。

その中にNY出身の親友キャロルから「とりあえず空港についたらここに連絡しなさい」と教えてもらった友人の連絡先もありました。

無知と若さの相乗効果で怖いもの知らずだった当時のおいらは、チケットとパスポート、あとトラベラーズチェック(カードが普及する前の海外旅行ではこの旅行者用小切手が定番で、銀行へ行ってパスポートを見せこのチェックを現金に換えてもらいます。これだと盗まれても盗んだ人は使えないし、常に大量の現金を持ち歩くよりは安全だったのです。めんどくさいけど。)なるものだけ用意して、名古屋の空港からソウル経由の大韓航空でNYへ旅立ちます。

ネットで手軽にホテル予約ができる時代ではないにしろ、2か月予定のチケットで出発した時点では到着後の予定がすべて白紙でした。

無茶苦茶だね。もしおいらの子供がこんな予定で海外旅行するとなれば全力で反対することでしょう。

アンカレッジで給油した飛行機は無事NYのJFK空港へ到着。当時は今に比べセキュリティーチェックもガバガバでしたね。

さて、到着してみると夜中の12時過ぎ。これはちょっと見ず知らずの他人の家に電話するには不都合な時間だというくらいはおいらにも分かったんだけれど、でも時間は逆戻りしてくれないので仕方ありません。

キャロルに教えてもらった通り、まずはここに電話しなければと公衆電話からハリーの家に電話を掛けます。

お母さんが電話に。

「もしもし、日本から来たヒロシと言います。ハリーとお話しできますか?」
「ハリーはどっちのハリーだい?」
どうもお父さんも同じ名前らしい。
「キャロルの友達なんですけれど、どっちだろう?」
これでハリーに代わってくれました。
「ああ、ヒロシ、今どこにいるんだい?」
「JFK空港」
「分かった、迎えに行くからそこを動くなよ。」

約1時間ほど待ってるとハリーJr.がハリーパパが運転する車で空港までやって来てくれました。全く初対面で、それまで連絡も取りあったことがない、見ず知らずの日本人を迎えに。後から思えば、キャロルが日本から友達がNYに行くから世話をしてくれと電話なり手紙なりで伝えてくれていたのでしょうね。そうして向かったハリーの家はマンハッタンを通り抜けたウッドローンというNYのアイリッシュタウンでした。でも彼の家族はドイツ系らしい。

家につくと電話に出てくれたお母さんが「ようこそヒロシ、おなかは空いていないかい?ちょっとなんか食べる?」と、チキンとライスを用意してくれます。

これがついさっきまでおいらの存在も知らなかったアメリカ人家族の対応。今思い出してもちょっと尋常じゃないけれど、そういう家族だからキャロルが教えてくれたんだね。「キャロルの友人だけれど」という魔法の言葉で真夜中にもかかわらずアメリカに迎え入れてもらい、この後1週間ほどこの家にホームステイさしてもらいました。帰国後キャロルに会ってハリーにお世話になった話をすると「ね、すごかったでしょ。アメリカのホームドラマに出てくる家族そのまんまでしょ」と笑っていましたっけ。現実はそれ以上でしたが。

お父さんはお医者さんで、マッケンロー(知ってる?)なんかも診察していたらしい。マンハッタンへ出かける用事があるときに車に乗せてもらってると、教会のような建物を指さし、あそこがマッケンローの家だよと教えてくれました。

ハリーの彼女が仕事探しの面接に出かけるときに一緒に街に出かけ、彼女が面接している間その会社のロビーで待ってたりもしましたね。それで面接が終わった彼女が「この近くに面白い寿司屋があるのよ、食べて帰りましょう」と、二人で向かった寿司屋は回転ずし。当時はまだ海外では珍しかったはず。それで回ってくる寿司を食べていたら、オレンジ色っぽいような、赤っぽいようなお寿司が回ってるので「そうか、アメリカではサーモンの寿司もあるんだな」(日本ではちょっと前まで珍しかったんですよ、サーモンの寿司)と思いながら取ってみると、やけにテカテカしています。これがサーモンでなく赤ピーマンの寿司だったのでまたカルチャーショック。まあ、かわいいショックですけれど。

週末にハリーの友人達と近所の公園でバスケットをプレーしたりもしました。おいらは中学高校と体育委員をしてたくらいで、スポーツは何でもそれなりにこなせたのです。それで調子に乗って後ろ向きからシュートすると得点してしまい「ヒロシスゴイな」と他の友達とも仲良くなりました。

その友達の中に警察官(コップ)の人がいて、彼の家が近いとのことでバスケ後にそこへ移動してわいわいしていました。そうすると、友達でたばこのようなものを回して吸い始めます。そう、マリファナです。これがおいらのところにも回って来たので、おいらが吸い始めたところで「おいそこの日本人、何吸ってるんだ?オレはコップだ。」とバッジを見せます。

もちろん冗談で、みんなで爆笑しています。(まあ、鉄板ネタだったのでしょうね)

別の日にはハリー宅で(多分)親戚の家族なんかも集まって大人数のバーベキュー。この家の地下にはビリヤード台やちょっとしたホームバーもありました。食事が一段落するとそのリビングでおしゃべりタイム、この家のビールはお父さんの好みでベックスだけ。おいらも瓶から直接ベックスを飲んでいると、親戚の子らしい、多分12、3歳の男のかやって来て「ヒロシは日本人なんだろ」と言います。
「そうだよ」
「オレ日本語知ってるんだ」
「ああ、ホント?」と、ここでおいらは「コンニチワ」とか「アリガトウゴザイマス」とかの言葉を待ちます。すると彼が
「フェラチオチンポコ」
一瞬固まったけど、爆笑してしまいました。

「意味は知ってるの?でも、あまり大きな声で言わない方がいいよ」と言ってはみたけれど、その後の彼の人生は知りませんよ。

この町の小さなスーパーで買い物をしていると、レジの近くにアイリッシュ柄(四葉のクローバー)のTシャツが売っています。これを買って帰るとハリーのお母さんが「これはヒロシにピッタリよ」と、よくわからないこと言って褒めてくれます。ハリーはいろいろ事情があって家からあまり出ないのだけれど、毎日顔を出すハリーの彼女に電車の乗り方などを教わり、時々一緒にマンハッタンまで出かける日々。

Tシャツは日本から持って行ってたものの中に、おいらがデザインしたものもあり、滞在中はいろいろな人に褒めてもらいました。当時学生しながらのバイトで、お店のバイト以外にもアパレル関連のTシャツ柄のデザインもしていたのです。その会社の社長がおいらが出社しないでも仕事できるようにおいらの一人暮らしのアパートに最新式のデカいコピー機をレンタルで置いてくれていました。コンビニに置いてあるのより立派でしたよ。この辺りの事情は別のところに書いてるけれど。大学のクラスメイトでおいらのところにコピー機があること知ってる人は時々コピーしに来てましたっけ。若いってすごいですね。当時のおいらは疲れるということを知らなかった。

でも、自分のデザインをほめてもらえる体験はやはり自信につながります。結果的にグラフィックでなくプロダクトデザインの仕事をするようになるわけですが、自分のセンスはワールドワイドに通用するのだという感触を得たのは後から思えば大きな収穫だったと思います。小さなことみたいだけれど。

あと、アイリッシュTシャツを着て街を歩いていても時々声をかけられました。
「ヘイ、お前それなんだか知ってる?」みたいに。
「ああ、知ってるよ。おいらは日本人だけれど、アイリッシュタウンは最高だ。」とか答えていたと思います。

さて、居心地はいいのですが、ちょっとNYにも慣れてきたし、ずっと迷惑をかけるわけにもいかないので次は名古屋のスペイン料理屋でバイトしていたメキシコ人姉妹(当時おいらはこのお店の下のレゲエバーでバイトしていたのでお友達でした)の連絡先へ電話をかけ、しばらくご厄介になることになりました。日本に帰る前にまたあいさつに来ると約束し、約10日間お世話になったウッドローンの家にしばしのお別れ。

メキシコ人のジョセフィーナの家は彼と二人暮らしでしたが、客間があったのでそこに1週間ほどご厄介になりました。マンハッタンから橋を渡ったニュージャージー。

ジョセフィーナのお姉さんのアラセリは近くに住んでいるのでいつも一緒。そのアラセリの仕事をしている会社のピクニックがあるから一緒に行こうと誘われ、家族として付いて行くことに。

当日はバスに揺られて1時間ほどの池のほとりにあるちょっとしたフェス会場に到着。屋根付きの大きなスペースにはバーベキューはもちろん、寿司、メキシカン、中華などの屋台が並び、(何の会社かは覚えてないけど)大勢の社員が好き勝手に飲んで食べて楽しんでいます。

おいらもメキシコ人家族として1日楽しんで来ました。あとで考えてみると、あんなにガバガバにこういうイベントに誰でも入れていたのは時代がよかったんだろうね。まだ911前でNYにはツインタワーが建っていました。

別の日に今夜はディスコテカに行こうという話になり、ニュージャージーのクラブに出かけました。入り口で(アメリカで飲酒できるのは22歳からなので)年齢チェックがあります。おいらは(この日だけうっかり)パスポートを持っていなかったのでアラセリが「彼も成人よ」と言ってくれるんだけれど、受付の人が首を縦に振りません。「何もIDカードないのか?」と言われても、財布の中にも何もありません。唯一持っていたのが大学の学生証でした。そうすると受付の人が見せてみろと言って日本語の学生証をのぞき込みます。生年月日は書いてあるけれど、年号表示。これが西暦だったらよかったんだけれど「なんじゃこりゃ?」ということになり、結局入場を断られました。この時くらい年号表示の習慣を呪ったことは後にも先にもありません。

気を取り直して、別のライヴハウスへ移動したら、イカしたレゲエバンドが演奏していてこれはこれで楽しめました。

ライヴの休憩中に一人でお店のバーカウンターへ行き、ビールを飲んでいると、隣にニコニコしたアメリカ人(そりゃそうだね)が座ってきて、「ヨウ、元気かい」としゃべりかけてきます。
「ああ、元気だよ」
「どっから来たんだい?」
「日本から」
「そうか、遠いとこから来てるんだな。なんでニュージャージーにいるんだい?」
「友達がいるからね」
「そうか、友達はいいもんだ。オレもお前の友達だ。そうだ、いいものをやろう。」そう言って彼はポケットからじゃらじゃらきれいな石を出します。その中から一つ摘んで。
「ほら、これをやるよ。これは幸運を呼ぶ石だ。お前の望みがかなうといいな。きっとかなうぞ。」
「おお、ありがとう。」
これでおいらのNY滞在も鬼に金棒な気がしたものです。

このニュージャージーのホームステイ先から昼間はマンハッタンへ出かける日々の中で、安いホテルを探していたらガイドブックなんかにある安いホテルよりも更に安いホテルもあることが分かり、何かあればここにいるからとジョセフィーナのところにホテルの電話番号を残し目星をつけたホテルに移ることに。

ソーホー地区より少し南の、当時はボーソーと呼ばれていた辺りのホテルに落ち着き、昼間は美術館へ出かけたり、夏の間夕方にセントラルパークで毎日あったフリーコンサートに出かけたり、ヴィレッジヴォイスで目星をつけたクラブに遊びに行ったり、とにかくNYを満喫していたら、ホテルに友達から電話があったとフロント(らしき場所)でホテルの人に言われました。

明日の朝また電話があるらしいとのこと。

電話の主はサイモン。

彼は名古屋で知り合った親友、サンフランシスコ出身のアメリカ人で、モデルをしていたこともある美男子。彼はゲイなんですが、おいらのことが好きだったのです。ただ、おいらはゲイではないので、恋人関係にはなれないと既に名古屋で話をした後は友人として仲良くしていました。

おいらのNY行きを知った彼は「NYに2か月もいてもアメリカを知ったことにはならない。ぼくと一緒に西海岸からアメリカ入りして1か月かけてレンタカーでアメリカを横断してNYに行けばいい。」とススメてくれたのですが、当時のおいらが興味があったのはNYだけだったので、結局そのプランはボツになった経緯があります。まあ、アメリカ全般に興味を持っていたら楽しい旅行になるだろうというのは分かるんですけれどね。

でも、おいらの出発前にNYに会いに行くかもとは言ってくれていたのです。

彼はおいらの居場所を探すために、ハリーの家に電話し、ジョセフィーナの家に電話し、ホテルの電話番号に辿り着いたとのことでした。まだ携帯電話が普及する前の時代だからね。今なら世界中どこにいようが簡単に連絡できるけれど。

さて、待ち合わせをして久しぶりの再会。サイモンが最初に言ったことは「ヒロシ、ここはアメリカだよ。夏にそんな長いジーンズはいてる人はいない。周りを見てごらん。とりあえず短パンを買いに行こう。」

安物の短パンを購入し、既に何度か行っていたゴスペルのライヴをやっているライヴハウスへ。Delta88というお店で、今はもうないことは知ってるけれど、当時は毎日ゴスペルかR&Bのライヴとニューオーリンズの料理を出しているご機嫌なお店でした。

サイモンは(彼も夏休みで日本からアメリカに一時帰国中だった)地元の友達にNYへ行くと話して、その友達を紹介されているらしく、その友達の友達に一緒に会いに行こうという話になりました。

日を改め、その友達の家に遊びに行きました。この友達の友達が、やっぱりゲイつながりの友達なんだけれど、仕事はウィットニー ヒューストンのマネージャーだそうです。

ホンマかいなと思いつつ一等地の家に遊びに行くと、一人暮らしにしてはやたら広い家に通され、壁にはいくつもゴールデンディスクやプラチナディスクの額が飾ってあります。家具はイタリア製のモノばかり、どうやらほんとらしい。

彼の部屋にあった雑誌をパラパラめくっていると、クラブの広告が出ていました。すると彼が「ああ、そこは今NYで一番ホットなクラブだよ。ヒロシも一度行くといい」と教えてくれました。クイックというクラブ

その日は三人で近所のバーへ出かけました。

ビリヤード台の周りで飲んでいると、その友達がすっとおいらの頬に手をかけました。まあ、それだけなんだけれど、帰り道でサイモンが「彼もヒロシが気に入ったみたいだったね」と笑っていました。

NYに出発する前にキャロルが「ヒロシは私なんか負けちゃいそうなくらいセクシーだから、NYに行ったら絶対ゲイの人に好かれると思うよ。気を付けてね。ふふふ」と言っていたのを思い出しました。髪が長かったこともあるのかもしれないけど、なんか当時のおいらにはそういう要素があったらしい。自覚は全くなかったんだけれどね。

さて、別の日はサイモンと二人でホテルから歩いて行ける距離の気になっていたMarsという6階建てのビルが丸ごとクラブになっているお店へ出かけました。

地下がレゲエフロア、1階がヒップホップ、2階がユーロビートみたいな感じで、屋上がまたレゲエになっていました。当時は有名だったみたい。

1階のフロアで踊っていると、ちょっと離れたところにいたサイモンがいかつい人と話をしています。時々おいらの方をチラチラ見てる。しばらくすると、サイモンが一人でおいらのところに戻ってきてニタニタ笑っています。

「どうしたの?」と聞くと

「今の人はゲイでナンパされてたんだけれど、断るために『ぼくの彼はあそこにいる日本人で、小柄だけど空手がめっちゃ強いんだ。怒らすと怖いからあまり話しできない』と言ったんだ。もう近づいてこないはずだよ。」と、知らない間に空手の猛者に仕立てられていたそうで、こっちも笑ってしまいました。

そうして数日サイモンと過ごし、彼がNYを離れる前の晩にゲイバーで飲んでいた時、近くのお客さんが「あんたたちは国際カップルか?」と話しかけてきました。そこでサイモンが「ぼくたちは友達なんだ。このヒロシはゲイじゃないからね。でも、100歳になるころには彼も変わってるかもしれない。まあそれまでは友達ってことだよ。」と言うと、その人はなんだか泣きそうな顔をして「いい友情だ。いい話だ。」と感動していましたね。おいらは何がそんなに感動的なのか、よく分からなかったけれど。

あと、サイモンにIDカードがなくて入店を断られたことがある話をすると、じゃあ作りに行こうというので、お土産用にテキトーな偽IDカードを作ってくれるお店に行き、いくつかパターンを見てみると、怪しい出来上がりのカードばかり。確かCIAのIDカードを作ってもらった記憶があります。(当たり前だけど)結局使わなかった。

さて、また一人になったので、名古屋の別の友達、カーターが教えてくれた彼の親友のME(女の子、エミーと読みます)に電話をかけ、何度か遊びに出かけました。

カーターとは名古屋でNYに来る前に会ったとき、一緒に証明写真のボックスに入って2人で変顔の写真を撮り、これを持って行ってくれと頼まれていました。まだプリクラとかなかった時代なんだけれど、証明写真をこういう使い方することを知らなかったおいらにはちょっとした発見で楽しい経験でした。

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MEに最初に会ったときに、まあ、友達だということの証明写真を見せると爆笑してましたね。彼が元気だということも分かって一石二鳥。

MEとは何度かクラブへ夜遊びに行きました。仕事してるから昼間はなかなか会えない。

Marsに行ったときは「ねえ、ヒロシ、この辺りは安全なの?」とちょっと怖がってたのを覚えています。まあ、無事帰ってきましたけどね。

彼女も楽しめたようでまた付き合ってくれるということなので、次は二人でクイックに出かけると、クラブの前に行列ができています。「一番ホットなクラブ」だけに人気があるようです。

ところがなんか様子がおかしく、周りの人がちらちらおいらとMEの方を見てはニタニタしてるんですね。なんだろうと思いよく見たら、他のお客さんはほとんど黒人のゲイみたいで、アジア人のおいらと金髪の女の子のMEは浮いていたようです。まあ、彼女は気にならないようだったので一緒に入ると、やっぱりほとんどがゲイのお客さんで、おいらたち二人はやっぱり目立っていたようです。そういうお店でした。でも、みんな親切だし、楽しめましたよ。

当時おいらは(本業は学生ですが)名古屋でダンサーとしても活動していたので、本場の一番イケてるクラブで踊る人たちのカッコよさは大変参考になったし、いい経験でした。ある種の経験は若い時にしかできないと思うので、今NYを再訪してもああいう時間はもう体験できないと思います。それはそれとして、今なら別の楽しみ方があるのでしょうけれど。

おいらがNYにこだわった理由の一つが映画「Mondo New York」なる映画に出てきたアンダーグラウンドな場所を覗いてみたいと思っていたこと。若いだけに刺激的な体験を欲していたということだね。今じゃ自分でも驚くほどすっかり丸い人間になっていますけれど。

ある晩も夜の街で面白そうなところを探してぶらぶらしていると声をかけられました。
「ヨウ、調子はどうだい」
「悪くはないね」
「何してるんだい」
「どこか飲めるところを探してるんだ」
「オレはこの先のジャズバーでプレーしてるんだ。まだ時間が早いけど。お前どこから来たの?」
「日本人だよ」
「ああ、日本はいい国だよな。トヨタ、ソニー、キャノン、ホンダ、何でも日本製じゃないか」
「おいらは学生だからあまり関係ないけどね」

この黒人の自称ミュージシャンのスーと話していると、お前にいいものをやるよと言います。また石ころかと思ったら、コークをやるよと言うのです。ただ、今はライヴ前でまだギャラもらってないからちょっとカネ貸してくれと言うんですね。ああ、話しかけて、こういう手口でお小遣い稼ぐ人なんだなあと思ったけれど、まあ、突然走って逃げるわけにもいかず、いくらだと聞くと10ドルだというので、(まあ騙されてたとしても生きていけなくなる被害ではないし)疑るような顔しながら10ドルを渡すと

「ああ、お前オレのこと信用してないだろ、オレはウソは言わないぜ。ほら、これはオレの家のカギだ。ちょっと持っててくれ、あそこに知り合いがいるんだ」と鍵を渡され、通りを挟んだ乾物屋に入っていきます。(本物かどうか知らないけど)鍵を預かっているのでとりあえず待っていたら、しばらくしてスーが戻ってきます。

「ほら、これやるよ」と小さな紙の包みを渡されました。彼はそろそろライヴに行かなくっちゃと言うので鍵を渡して別れました。

誤解がないように書いときますが、おいらはとても上品でクリーンな人格者(こういうことを自分で言う人はあまり信用しない方がいいです)なので、コカインなんか使ったことがなかったし、そもそもその粉をどうすればいいのか皆目見当が付きませんでした。ホテルに戻り、まあ、物は試しだと小さな紙の包みを広げてみます。

映画などでは鼻から吸ったりするなあ、なんて思いながら、ドラマで刑事さんが小指を白い粉につけてちょっとだけなめ「ん、ヤクだ!」なんていう場面を思い出し、おいらも白い粉をちょっとなめてみると、とても甘い砂糖でした。

一人の時にもゴスペルのお店Delta88には時々行っていたのだけれど、ある日お店に入ると店長のジェイミーが「ちょっとこっちにおいでよ」と、いつもおいらが座るステージ近くの席でなく、ラウンジになっているテーブルに誘ってくれます。
「ヒロシって何してるの?」
「今はNYで観光と言うか、2か月滞在中なんだ」
「日本では何してるの?」
「デザイン学科の学生だけれど、レストランでバイトしたりしてるよ」
「なんでこの店に来てくれるの?」
「音楽が好きだし、ここはゴスペルやニューオーリンズのバンドのライヴがあるから気に入ってるんだ。Dr.ジョンやネビルブラザースも好きだからね。一番聞くのはレゲエだけれど。」
「気に入ってもらってうれしいよ。今日はお店のおごりだから楽しんで行ってね。」
と、親切にしてもらったので、NYで覚えた「ロングアイランドアイスティー」でその日も酔っぱらいました。

ちなみに今でもミラノでカクテルを頼むときは「ロングアイランド」一本やりです。

2か月の滞在でしたが、このお店では常連客のように扱ってくれ、他のお客さんとも話をするようになると「なあ、ヒロシ、音楽が好きなんだろ。ジャズも好きか?」
「特別詳しくはないけれど、日本の友人がジャズやってたりするからコルトレーンやマイルス・デイヴィスくらいは聴くけどね」
「じゃあ、一度ヴィレッジヴァンガードへ行きなよ。ここもいい店だけれど、音楽ならあそこが一番だ。」
とススメられ、足を延ばすことに。

おいらが行った日はファラオー サンダースのライヴ。これが当時のおいらには衝撃的なライヴで、正直「ああ、これがジャズなのか」とそれまでの経験や知識がすべてぶっ飛ぶような体験でした。後日ヴィレッジヴォイスを見るとこの日のファラオー サンダースのライヴが大きく取り上げられていて「ファラオーのキャリア最高のライヴ」と絶賛されていました。そんな日にたまたまヴィレッジヴァンガード初体験できたことは偶然だけれど幸せなことですね。

その約15年後にミラノでもファラオー サンダースのライヴがあったんだけれど、残念ながら知るのが遅かったので既にソールドアウトで行けなかった。

でも、(お金に余裕がないから)毎日はそういうお店に行けないので、節約する日はセントラルパークのフリーコンサートに行くんですが、ある日(サイモンに買わされた)短パンとはさみで袖の部分を切ったTシャツのラフな格好でセントラルパークをぶらぶら歩いていると、向こうの方からクソ熱い中をビシッと黒いスーツの三つ揃いを着た3人組が歩いて来るんです。どうもアジア人ぽい。両脇の2人はサングラスしてるからボディーガードっぽい。なんじゃいなこの人達は?とだんだん近づき、3人とすれ違う時に真ん中の人と目があいました。

郷ひろみでした。そういう時代だった。

セントラルパークのフリーコンサートでは知ってる名前のアーティストも出演していましたが、日によってはメトロポリタンオペラも「アイーダ」を上演したりしてました。すごいよね。

一番うれしかったのはスクリーミン ジェイ ホーキンスのライヴ。初めて「I put spell on you」を生で聴けました。タダで。

この1年後にスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが日本ツアーに来る偶然もすごいよね。それで、名古屋のクラブ・クアトロでの彼のライヴに、その度はちゃんとおカネを払って観に行きました。

当時、名古屋のクラブ・クアトロは店長も知り合いになっていたりして、おいらは顔パスで楽屋にも入れたので、スクリーミン ジェイのライヴ後に楽屋へお邪魔し、NYのライヴも観たと話をして友達になりました。と言うのも、NYの彼のライヴを見た後、彼がステージで首に巻いているゴムの蛇のおもちゃとそっくりなモノをおいらもNYで入手していたので、その日のライヴにはおそろいの蛇を首に巻いていたのです。2人でこの蛇をキスをさせて記念写真を撮りました。

彼に「あなたはすごいよ。今日のステージも最高だった。ホント、クレイジーだよ。」と言うと。
「いや、クレイジーはお前さんだ。」と大爆笑していましたっけ。もう天国(あ、地獄?!)へ行ってるから会えないけれど、多分その後も日本のおかしな友人のことは覚えてくれていたはず。

NYに話を戻して、いろいろと楽しんだ2か月でしたが、だんだん帰りの日が近づいてきました。

どこの馬の骨かも分からない日本からやって来た、ちょっとはみ出した若者をすんなり受け入れてくれたNYC。

MEに最後に会ったのはクラブではなく喫茶店(アメリカンダイナー)みたいなお店だったはず。もう日本に帰るので、今まで遊んでくれてありがとうと伝え、タクシーまで送っていくと、別れ際にちょっと照れながらほっぺにキスしてくれました。まあ、最後なのでアメリカ式に友人として接してくれたのでしょう。

ハリーの家にもあいさつに行きました。ハリーJr.もハリーパパもお母さんも彼女もそろい、既に「懐かしい」感じの家の庭でバーベキューでハンバーグを焼いてハンバーガーを食べました。食後に庭にあるブランコにお母さんと彼女とおいらの三人が並んで揺れながら、彼女が「そうか、もう日本に帰っちゃうのか、またおいでよ。」とちょっと寂しそうな顔をしています。ふと彼女の横顔を見ると目に涙まで浮かんでるんですね。なんかこっちまで泣けてきそうになりました。真夜中に突然電話をしてきたおかしな日本人の若者を温かく迎え入れてくれた家は最後まで暖かかったです。

この約1年後にハリーだけ日本に遊びに来て、1か月ほどキャロルの家にホームステイしました。そこで再会し、アメリカに帰る1週間前に日本の名古屋以外の街も見て帰りたいということで、京都、大阪、おいらの地元の倉敷まで小旅行を一緒にしました。これで少しは恩返しができたと思っています。

ホテルに泊まると、当時の日本のビジネスホテルはテレビの横にコインを入れる箱が付いていて、100円入れるとAVが流れました。今どきはチャンネルで有料サービスを選択するんだろうね。で、それまでキャロルの家にいた彼はその箱を見たことがなく「ヒロシ、これ何なの?」と聞くので、100円入れてエッチな画面が現れると「グオオオオオ!」すごい声を出すのでびっくりしました。

彼がおいらに電話してくるときはいつも「ワツァップ、キャットメーン」と言ってたけど、彼の方がキャットメンだったと思う。(ハリーがいつもキャットメンと言うので、ある日キャロルに聞いたのです。「キャットメンってどういう意味?」「あはは、あまり意味はないけど、スケベ野郎ってことかな」と教わりました。)

さて、NYの楽しい滞在も終わってJFKから無事帰途につき、彼女が迎えに来てくれているはずの名古屋空港へ帰ってきました。この日は到着後、すぐにバイトしていたお店の「満月パーティー」に遊びに行くことになっていたので、ちょっと(ではなくかなり)派手な服を着て、首に例のゴム製蛇を巻いて再入国の税関を通ろうとしたら、税関の人に「ちょっといいですかあ」と声をかけられ、別室なるところへ連れていかれ、荷物を隅から隅まで調べられました。お尻の穴までは見られなかったけれど。

「アメリカではなんか吸ったりとかしませんでしたかあ?」みたいな質問されましたが、まさか「アメリカの警官にマリファナ吸うことを強要されたとか、砂糖をなめてきた」とか言うわけにはいかず。「いえ、何も。お酒は飲みましたけれど、何かあったんですか?」

結局、無味無臭で潔白な好青年のおいらは約2時間後に開放され、またシャバの空気を吸える権利を得ました。めでたしめでたし。

ただ、外で待っていた彼女は「きっと調子に乗ってなんかヤバいものを持ってたか何かでもう出てこれないんじゃないか」と心配していたようです。

でも無事戻ってこれました。心配かけましたね。この時の彼女が今の妻です。

この初海外経験以来、日本に一時帰国する際はいつもものすごーく地味でフツーな服を着るように心がけています。結構後までトラウマになりましたよ。マジで。皆さんも飛行機に乗るときはできる限り地味な服装をおススメします。ゴム蛇は厳禁。

さてさて、いったん日本に帰ってから卒業後はイタリアに行こうと考えがはっきりしました。NYはホントに楽しくて面白かったし、ここでもなんとかなりそうだという感触はあったのだけれど、自分が求めているものはNYでなくイタリアというか、ヨーロッパの(デザイン)文化なんだと逆説的に思い至ったわけです。

年寄りなので(ホントはそんなこと思ってないけれど、謙遜です)話が長くなりましたが、まあ、これでも端折って書いたつもりです。NYの話は長くなるので今までもブログなどで断片しか書いていなかったため、ちょっとまとめて書いてみたいとずっと思っていました。だから何だということでもないんだけれど、確実においらの人生の大きな転機の一つなんですね。

最近の日本の若者は内向きで海外に行こうと思う人が少ないらしいんだけれど、こんなに刺激的な、人生を変えてしまうような経験は若いうちにしかできないものです。分かったようなつもりでいたことが分かっていなかったことが分かるというのが面白いのです。言葉遊びみたいだけれど。

Peace & Love





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