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メンディーニという小さな巨人

アレッサンドロ・メンディーニの訃報が届きました。アレッシー社のワイン抜きなんかのデザインをしていたイタリアデザイン界の巨匠。約10年前に亡くなったエットーレ・ソットサスと共にミラノデザイン界の2トップ的な大御所でした。(本文内ではややこしくなるので敬称は省略します。)

おいらが日本でデザインを学んでいる時にずっと憧れていたミラノの大スターの一人です。ソットサスはメンフィスというグループ、メンディーニはアルキミアというグループを作っていました。日本で彼らの分厚い作品集を買い、機能的なだけのデザインでなく、もっと「自由なデザイン」が世界には存在するということを知りました。

日本からミラノに出てきたとき、最初の予定は1年間だけの滞在。その間に出来ればソットサス、メンフィスのメンバー、メンディーニなんかのデザイン事務所でインターンとして数か月働いてみたい、間近でどんなふうに仕事を進めているのか見てみたいと思っていました。

最初の半年は集中的にイタリア語を勉強し、カタコトで話せるようになってから興味のある事務所にFAXで履歴書を送り、電話して面接のアポイントメントを取る日々が始まりました。まだケイタイもインターネットも普及する前の時代。

ソットサス事務所ではマーク・ライアンという人に面接してもらい、「今はインターンも募集してないんだ。」と断られました。

その後もいくつかアポイント取れたところから面接を繰り返し、ジョージ・ソーデンというメンフィス創立者の一人の事務所で「安月給でよければ来てもいいよ」と使ってもらえることになりました。

当時ソーデン事務所ではスウォッチの固定電話のプロジェクトを手掛けていたのですが、その製品の店内展示用の家具のデザインを任されました。

入りたての新人なのでちょっと試しに仕事を与えてくれたのだと思っていたら、ジョージが「いいねえ、ヒロシ。今週アレッサンドロのところに行くから一緒においでよ。」と言います。このアレッサンドロがメンディーニで、彼は当時スウォッチ社のアート ディレクターを務めていていました。

これが初めてメンディーニとの体面で、ミーティングもうまく運んでプロトタイプを作ることに。

25年ほど前の話なんですが、ちょうどその頃ケイタイ電話が普及し始めたころで、上記のプロジェクトに突然ストップがかかり、固定電話プロジェクトはお蔵入りになりました。ちなみにスウォッチ社の古い固定電話はジュジアーロのデザインでした。

まあ、デザインの仕事も裏ではいろいろあるわけで、そういう状況の中にいるのも経験だと思い、また別のオリベッティ社のプロジェクトなどで仕事を続けていました。ある日モデル屋さんからの帰りの車の中でジョージが「なあ、ヒロシ、3DCADを導入して事務所の中でデザインからエンジニアリングまで一貫した仕事ができれば、クライアントのエンジニアからあれこれデザインの(不本意な)変更押し付けられたりしないし、メーカーにはトータルな仕事を納品できるだろ。どう思う?」と聞いてきます。おまけに「ヒロシならエンジニアリングもできると思うぜ」と突拍子もないことを言い出します。

結果的には先見の明があった彼の言う通り、その後のデザイン界は3Dでの納品が当たり前の時代になるわけですが、ソーデン事務所がミラノで本格的3DCAD導入をした初めてのデザイン事務所となりました。おかげでおいらがミラノで初めてのエンジニアリングまでこなすデザイナーになったわけです。3Dを使った最初のオリベッティ社のプロジェクトではオリベッティからジョージがよく知ってるエンジニアの人を事務所に呼び、おいらはマンツーマンでエンジニアリングのノウハウを教えてもらいました。

そうこうして数年経ったころ、ある日突然ソーデン事務所にメンディーニがやって来ました。一緒に来たのはアルベルト・アレッシー、アレッシー社の社長です。

ジョージも知らなかった訪問のようで、ちょっと驚いていたけれど、これがおいらが久しぶりに会ったメンディーニで、彼もおいらのことを覚えていてくれました。

そんなこんなで、おいらもソーデンデザイン名義でアレッシーの製品開発にいくつか関わりました。

おいらがデザインとエンジニアリングに関わったソーデンデザインの計算機の製品見本を一緒に点検するミーティングへアレッシー本社までジョージと出掛けました。ここはメンディーニは関係ないのでいませんが、アレッシー本社の建物はメンディーニデザインです。

このミーティングは非常に印象に残っていて、出来上がった見本を前にテーブルを囲んだみんなで「ああ、いい感じに出来たね。いいんじゃない?」と言っていると、アルベルト・アレッシーが計算機をトントン、トントンと叩き始めます。

「ああ、なんだか音が安っぽいね。もうちょっとボディーを厚くできない?」

この計算機は日本の新書程度の大きさの製品なので、本体部分を2.5㎜で設計していました。もちろん強度的に問題ないし、形もきれいに仕上がっていたわけですが、計算機を叩いた音がアレッシー社の製品にしては安っぽい感じがするという理由で4㎜まで厚くすることになりました。

金型屋さんに金型の修正をお願いすると「バカげてる」と怒っていましたが、こういう誰も気付かないようなこだわりがトップブランドを維持していく秘密なんだなあと感心しました。

ちょっと話がそれましたが、まあ、ミラノのデザイン、イタリアのデザインが外国からも一目置かれるちょっとした違いを理解してもらうのには面白いエピソードだと思うので書きました。だって、フツーはわざわざ余分な(不必要な材料)コストがかかるようなことしないものね。世界中に計算機叩く人がそれほどいるとも思わないし。

更に脱線した話を元の鞘に納めるために続けます。

さて、ジョージ・ソーデンはメンフィスをソットサスと立ち上げた(当時)若いデザイナーの一人だったわけですが、このメンフィスには日本から磯崎新、倉俣史朗、梅田正徳の3人が参加しています。

ジョージは特に倉俣史朗と仲が良かったらしく、倉俣史朗の作品のプロトタイプの多くを手掛けていた石丸さんとも仲良くしていました。(ここだけ敬称でおかしいけれど、文章の流れで彼だけは外さない方がよさそうなので)石丸さんがミラノにくればソーデン事務所に顔を出してたのでおいらも仲良くしてもらってました。

その後おいらは独立して事務所を開いたのですが、ある年のミラノデザインウィークでばったり石丸さんと再会しました。

実はこの年、おいらの事務所でインターンした後にも先にも唯一の日本人がいて、彼女は先輩からミラノに石丸さんという人が行くから会うといいと言われてたらしいのです。おいらも知らないし、彼女もおいらがその石丸さんを知ってるとも知らないで別々で石丸さんに会っていました。

そんなこんなで「すごい偶然だねえ」と言いながら、その日は石丸さんと、もう一人倉又史郎のガラス作品を作っていた三保谷硝子の社長さんと一緒に夕食に行きました。

おいらの事務所からレストランまで「地下鉄で行きましょうか」という話になり、一緒に地下鉄のホームへ降りたところ、そこにポツンと立っていたのが小柄なメンディーニでした。

これがおいらが直接会って話をした最後で、その後も何度か見掛けたけれど挨拶して話をする機会はもうなかったなあ。

この日は石丸さんが倉又史郎のプロトタイプ作ってた人だと紹介すると、「ああ、私も史郎は友達だった。」と懐かしがっていましたね。

さて、夕食の間中このお二人から倉又史郎の仕事の進め方のエピソードなど、昔話をたっぷり聞かせていただきました。またどこかでその内容も書きたいなあと思います。

ソットサスの話は別のところに書いています。

さて、おいらが直接会ったメンディーニの話は以上ですが、おいらのところに来ていたインターンで今はミラノのデザイン学校で教えてる友人がいるのですが、彼がメンディーニのものまねがめちゃくちゃ上手で、時々会うと「じゃあ、今の話はメンディーニさんはどう思う?」と振るといつもものまねしてくれます。今度彼にあったら天国の居心地はどうか聞いてみたいと思います。

余談。ソットサスの事務所で面接してくれたマークには、その後ジョージに誘ってもらって行ったパーティーで再会しました。「ヒロシは、ジョージのところに行ったことで一番いいチャンスをつかんだと思うよ。いろいろ噂で聞いてるよ。」と言われました。そのまた10年くらい後に別の友人のパーティーでマークに再会し、その会場にいた共有のデザイナーの友人に「このマークがおいらがミラノに来て初めての面接をしてくれた人だよ。」と言うと「ヒロシ、君はスタートから巡り合う人に恵まれてたようだね。」なんて話になりました。とさ。

Peace & Love


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