見出し画像

第十話:生きづらさの正体

第九話で、世代間伝達に触れた。親は、その人生において、自分と同じ問題で悩んだ同士だったということ。親の代で問題を解決できず、もがき苦しんだ末、子にその問題を伝えてしまった。そこからなんとしてでも生き延びようとした間違ったサバイバル行動パターンとともに…。

人生のオリジナル脚本と成長脚本

宗像は、結婚後、パートナーと良好な関係を築き、しあわせに生きる方法を説くために「『運命愛』は取り戻せる」を著している。

画像1

その53ページを参照する。

親が経験した出来事や,さらには名前さえ知らない前世代の無念の思い(愛されない記憶や生命の危機の記憶など)は,大脳を介して世代間伝達されていくと考えられます.「人生のオリジナル脚本説」とは,この無念な思いを晴らそうとする無自覚の欲求が,その人の生き方のパターンをつくり出しているという考え方です.

人は,心が深く傷つくような体験をすると,そのとき感じた恐怖や不安などの感情を解消するための体験を自らしようとします.それを心理学用語で「修正感情体験」と言いますが,修正したい感情は必ずしも自分自身のものとは限りません.前世代から受け継いだ修正感情体験のためのオリジナル脚本がまずあり,それに自分なりの脚色を加えていく

人には,自分本来の自由な生き方(私はこれを「成長脚本」と呼びます)をしたいという気持ちがあり,オリジナル脚本から脱しようともがきます

親のつらい体験、前世代の無念の思いが世代間伝達される。それを晴らそうと、無自覚に自分の生き方のパターンをつくるが、その元にサバイバル行動パターン(生き残るための行動様式)があって、自分自身のものでないから、生きづらさを感じてしまう。でも、それを親のもの、祖先のものと気づいて、癒してやれば流れ去ってくれるということ。先日、研修で体験した「祖先療法」や「進化療法」は、まさにその気づきと、その場面の記憶の書き換えなのだ。これができると、誰でも無理なく成長脚本を生きることができるようになる。あなたがもし、いつも、なんだかわからないけれども生きづらい、そんなふうに感じていたなら、このような背景があることが想定され、癒すことも可能だと覚えておいてほしい。

生きづらさ

次に、「生きづらさ」について、少し深掘りしてみたい。
あなたは、身体のどこかに、慢性的な痛みを抱えていないだろうか。もしあるとすれば、それが生きづらさの表れ、すなわち「生きづらさ」は、「心の痛み」として感じられ、「身体の痛み」に派生していく
SAT療法では、それを「身体違和感」と表現しており、イメージの力を使って消し去るのだ。

宗像は次のように述べている。難しい説明だが、とりあえず読んでほしい。

SAT療法が対象にする身体違和感は、必ず嫌悪感が生じる進化期・祖先期・胎内期・幼少期の表情イメージや風景イメージ、その他のイメージを内包しており、感情性の痛みを表す特有の身体違和感である。それは感覚性の痛みとは別だが、感覚性の痛みと感情性の痛みは相互作用する。
つまり身体違和感は、無自覚であっても、祖先や親族を含むキメラの嫌な顔表情イメージや進化期・祖先期・胎内期・幼少期の嫌なイメージで表される感情性の痛みを内包している。また感覚性の痛みとの相互作用をともなって身体違和感を形成している。

進化の過程での体験、祖先の体験、自分が母親の胎内にいた時の体験、幼い時の体験で、自分が嫌だなと感じ、避けたくなるような、まわりの誰かの顔の表情や風景、これらの記憶が心の痛みとなり、身体の痛みと絡み合って身体違和感として感知されるということなのだ。

たとえば、あなたが幼い頃、一人で遊んでいた時に、母親からわけもわからず怒鳴られ、恐かった経験があるとする。その時と同じ声のトーンを出す人が、あなたはきっと苦手だろう。その時の怒鳴った母親と同じ目をした人が嫌でたまらないだろう。
そのシーンを思い出すと、胸が締め付けられ、息苦しくなり、喉が詰まる。甲高い怒鳴り声を思い出すと、首筋から後頭部にかけて痛みが走る。…たとえば、そんな身体違和感。
想像しただけでもストレス満々だ。
職場や家庭で、いつもそんなシーンを思い出さされる状況にあるとすれば、それはとってもストレスフルだし、いつ自分にカミナリを落とされるかと、不安で仕方がないかもしれない。

このような身体違和感を四六時中感じているとすれば、本当に生きづらくてどうしようもないだろう。だからマッサージに行って、一時、その痛みを拭って対処しているかもしれない。けれども、あなたには、その違和感の理由が分らないはずだ。

慢性的な身体違和感

宗像は「理由のわからないストレをつくる慢性的身体違和感の源」として、こんなことを教えてくれた。

私たちの知覚に影響を与え、予期不安を感じさせる身体違和感とは一体何であろう。私は身体違和感については「身体化した感情痛」だと考えている。

平たく言えば、身体の痛みとして表れた心の痛み

画像2

宗像は Craig,A.D.の論文を基に、次のように解説してくれるのだが、あまりにも難しい。
* Craig,A.D.:How do you feel? Interoception:the sense of the physiological condition of the body. Nat. Rev. Neurosci.,3:655-666, 2002.

感情痛はいわゆる感覚痛とは異なる。

感覚痛は、痛みの刺激を受けると痛みの特徴を認知し、過去の類似の痛みを想起し、痛みの強さを予見し対処しようとするものである。
他方、感情痛は痛みの刺激を受けると、その時点や過去の感情体験の影響を受け、痛みの強さや不快度が決定されるものである。

感覚痛であろうと、感情痛であろうと、それらの末梢からの痛みの刺激情報として、知覚と感情に作用する上行路を経由するが 、それぞ独立して末梢神経→脊髄→脳に至り、脳のレベルで両者が統合される。その際、いずれの痛みも感情発現を担う扁桃体を介して体性感覚野に至る。とくに感情痛はうつ病と関連する島皮質や前帯状回を経由して体性覚野へ情報伝達されるのが特徴で、感情とかかわりのある脳領域を経由する。

顔反応性細胞をもつ扁桃体は、顔表情に反応して下行性ニューロンの活動に影響を与え、感覚痛であろうと、感情通であろうと、脊髄でのみ痛みの強さを抑制あるいは増強するといわれる。

だから顔表情に快感を感じると、扁桃体を介して痛みは抑制されるし、反対に顔表情に不快さを感じれば痛みが増強する。

理解しやすいように、少し文章を区切ってはみたけれども、やっぱり難しい…。

なので、「痛み」について、別の説明を見てみる。

日本ペインクリニック学会のページ
https://www.jspc.gr.jp/igakusei/igakusei_bunrui.html

痛みとは

痛みは誰でも経験する感覚です。痛みはつらいし、嫌な感覚であり、出来れば経験したくない感覚です。痛みは、自身の体が傷害される時に感じる感覚です。合目的に考えれば、自分の体を傷害しないように行動を自制させる感覚です。傷害により嫌な感覚(痛み)を感じるわけですから、傷害しないような行動をとるようになるのです。痛みを感じない先天性疾患として、先天性無痛無汗症があります。先天性無痛無汗症患者では、痛みを感じないためどのような行動でも、恐れを感じることなく出来ます。その結果として、下肢を中心に骨折・脱臼・骨壊死、関節破壊などが多発します。また、「他人が痛みを感じる」ということへの理解も欠如することにより、社会生活が難しくなります。このように、痛みは生きていくうえで、とても大切な感覚なのです。

世界疼痛学会によると、痛み(pain)は “An unpleasant sensory and emotional experience associated with actual or potential tissue damage, or described in terms of such damage” と定義されます。

この前半は、組織損傷(tissue damage)に伴う不快な感覚であり、情動体験である(unpleasant sensory and emotional experience)と書かれています。ここまでの定義は、日常生活で経験する痛みですので、理解しやすいです。従って、このような痛みを持っている患者には共感できますし、医師として寄り添って「治してあげたい」という感情を抱くようになります。

一方後半部分は、このような組織損傷が無くても痛みを感じることがあることが示されています。実際の臨床では、どのような検査をしても組織損傷があるように思えないにも関わらず、強い痛みを訴える患者に出会うことは少なくありません。このような患者の痛みを共感することは難しいことです。

上述の定義の前半の痛みは、痛みとなる刺激が上位中枢で認知され、さらに不快な感情を持ち、情動体験(怒り、恐れ、悲しみなど、比較的急速に引き起こされた一時的で急激な感情の動きのこと)が引き起こされることにより生じます。

上述の定義の後半部分の痛みは、痛みとなる刺激は無いにもかかわらず、不快感・情動体験が強く引き出されることにより生じた痛みと考えられます。

この点から考えると、上位中枢での痛みの認知が痛みを考えるうえで最も重要なこととなります。ただ、この部分の詳細は十分には理解されていません。最近は、functional MRIなどを用いて人間での痛み認知のメカニズムの研究が進んできているところです。少なくとも、痛みは知覚・情動・認知に係わる上位中枢の領域で処理される過程で生まれる複雑な感覚であることは事実です。痛みは原始的な感覚であると同時に、大変高度な感覚でもあるのです。

なるほど、組織損傷に伴う痛みが、宗像のいう感覚痛、そうでない痛みが感情痛。で、どちらであれ、痛みをどう認知するかということ、つまり、痛みの程度の決定は、心(精神機能)ではなく、脳(認知機能)にあると考えればいいのかな。そして、その程度の決定に顔反応性細胞が関与していて、穏やかな顔、慈悲深い顔、笑顔、嬉しそうな顔…そんな顔を見ていると、痛みは和らぎ、反対に怒り顔や心配そうな顔、悲しんでいる顔などを見ていると痛みが増すと…。


セラピストとしてまだまだなことを暴露してしまうが、私には、慢性的な肩こりや首の痛みがある。社会人になって40年弱、ずっとパソコンに向って仕事をするスタイル。姿勢の問題もあるだろう、整形的なことと言う人もいるだろう。けれども、この肩こり、首痛は、精神的ストレスも多分にあると実感している。つまりは職場ストレス、自分を抑えないと生きられない日本社会の構造、自己抑制の身体化なのだ。

宗像は、自律神経機能亢進としての身体反応を、以下のように説明した上で、そうでない感情通もあるという。

常識的に考えると、感情痛としての身体違和感は、自分の感情体験の身体化と思われがちである。
確かにストレスに伴って一時的、急性的に生じる肩張り、胸ドキドキ、お腹の違和感などは本人の感情が身体化した違和感である。
しかし…

身体違和感の中に潜むキメラの感情、その昇華と味方化

宗像は以下のように続ける。
SAT療法の場面でのクライアントの反応。

身体違和感を感じてもらい、心の声表を用いた投影法でその身体違和感をつくりだす心の声を探してみると、自分の感情を表す心の声だけではなく、その時の本人の状況に合わない感情を表す心の声がしばしば見出される。本人にとって理由のわからないこだわりが起こり、解決できない問題を抱えてしまう体験が生じるが、このような場合、自分の感情を表す心の声が、本人のその時の状況とは全く異なる心の声が見出されるのである。

* 「心の声表」というのは、SATのカウンセリングやセラピーで使う、クライアントの感情を探るためのものであり、たとえば不安を感じていると、心の中では、どうなっちゃうんだろう、やっぱりできない、何か言われるかな、どうしよう…などとつぶやいている、その感情と心の声の一覧表。

先の私の首痛、この身体違和感に意識を向け、心の声を探してみると、
どうしようもない、やめて、ふざけるな、情けないと同時に、助けて、一人ぼっちだ、つらい…などという声が気になる。
不安と怒りと悲しみ、苦しみ。
同時に、自責や罪悪感などの派生感情も目に飛び込んでくる。
これ、一体、なに?…ということ。
自己抑制と自責、罪悪感?

第九話で書いた「罪悪感」の話だ。
宗像は、この、身体違和感から見出される「本人のその時の状況とは全く異なる心の声」の存在を臨床的に確認しており、これがキメラ細胞の感じている感情だと言う。

私たちの身体の中にいる細胞はキメラ細胞も含め、生物学的には細胞情報として弱いレーザー光を出していることがわかっている。ストレスを感じた時に生じる身体違和感のある部位に私たちは影を感じ、決して明るい光は感じないが、SATはそれを細胞情報と仮説している。
右脳を活用すると、その陰のある細胞情報から顔表情、性別、年齢、気質、欲求やその悪い意図のメッセージが感じ取れる。だから身体違和感がある時は、嫌悪表情や悪い意図を生む欲求やメッセージ(自傷他害を含む)に支配され、ストレスが生じている。
そこで、影を感じる身体部位を、黄金色、黄色など中波長の光イメージで包むことを想像する。すると、細胞情報が変化するので、笑顔や穏やか顔で前向きなメッセージが感じ取れるようになる。
明るい光を放つ細胞は、ひらめきを担う右脳の判断によって「自分の応援者となる親族」と感じ取れるので、スピリチュアルな応援メッセージを感じ取ることができ、孤独感が消失する。

これは、なにを言っているのか、きっと理解できないだろう。しかし、SAT療法を受けてみると、これを体験的に理解できるようになる。身体違和感を感じる部位に、暗い表情をしたきょうだいやおじおばなどの親族キメラを見るのだが、その親族キメラが元気になる光をイメージする。どんな光で包まれたら、そこにいるキメラ細胞が元気になりそうか、ひらめいた光を当ててみるのだ。
違和感が消えると、この親族たちが自分に応援メッセージをくれる。「いつもここで見守ってるからね、あなたは独りぼっちじゃないんだよ…」。こんなふうにして、身体違和感を手掛かりに、自分の中に味方がどんどん増えていく。
この体験は、第四話でお話ししたので、読んでいない方は遡ってみてみてほしい。

おわりに

第一段「人生のオリジナル脚本と成長脚本」、これをより深めてみたいと思って書き出したこの話。内容があまりにも哲学的で、私自身がまだ噛み砕けていない部分が多分にあるため、読まれたあなたを混乱させてしまったかもしれないし、途中で読むのも止めてしまった方も少なくないことだろう。これを書くのにすごく時間がかかってしまったのだが、宗像がいろんな機会に言っていることを繋げてみたら、こうなったというのが今回の話になる。

生きづらさは身体違和感として知覚され、それは自分のネガティブ感情による認知の歪みにより、痛みとして増強され慢性化する。
しかし、そこに感じるキメラ細胞を癒すことで、自分の味方をつくり、その味方に勇気づけられることで、カルマに囚われた生き方から解放され、あるがままの自分を生きられるようになる。
要約すればこういうことになるのだろうか…。

20世紀最大の予言者エドガー・ケイシーは、ライフリーディングの中で、次のように述べている。

人はこれまでの人生で蒔いてきたさまざまな行為、言葉、思いの結果を、自分自身で必ず刈り取らなければならない。
悲しみや失望にある人を、言葉によって勇気づけたり、慰めるなら、私たちがいつか苦しい状況に遭遇した時にも、いろんな形で勇気づけられたり慰めを得る。

自己成長は人が生きる目的。カルマは自分が今生より前に行ったことに対して罰を下すものではなく、魂を成長させるために、生まれる時に自ら設定してきたものである。これからも、魂が成長する生き方をしていきたいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?